前回のコラム>>オリンピアン関根明子さん、コラム始めます!~徒然なるままに~#001
水泳から陸上の世界へ
前回お話したとおり、私は4歳から水泳を始めました(詳しくは前回のコラムに)。辞めたい気持ちをもちつつも続けていましたが、中学2年生になり高校受験を機に辞めました。
そういえば母に関する逸話をもうひとつ思い出しました。2年生に進級したとき、部活に憧れていたこともあり陸上部に入部したのですが、前回書いたとおり、絶対に中学までは水泳をさせたかった母が私の意見も聞かずに、ある日陸上部の顧問に「まだ専門種目へ移行するには早いので部を辞めさせてほしい」と直談判したのです。
私の抵抗むなしく部を辞めさせられることに。今だったらとんでもない毒親ですが(笑)当時は、そこまでするほど母の信念と言いますか、教育方針と言いますか、私への期待がとても大きかったのだと思います。
さて、話を戻しましょう。
持ち前の粘りで勉強し、受験するも
晴れて水泳を辞め受験生になりましたが、初めて受けた全国模試の成績が、自分の予想より大幅に低く、大変ショックを受けました。偏差値が低過ぎて高校の選択肢がありません。初めて現実を突きつけられた瞬間でした。「私の人生終わったな。このままだと選べる学校がないんだ」と。
両親は門限や食事のマナーなどの躾は厳しかったのですが、なぜか勉強に関しては一度も厳しく言われた記憶がありません。
私自身、いつも体育の教科書の最終ページにあった、さまざまなスポーツの県記録や記録保持者の名前を見ながら「こんな風に名前が載るような人になりたいな~」と漠然とした夢はあったものの、自分の人生を真剣に考える機会もありませんでした。
水泳で推薦入学できる高校もありましたが、親元を離れ下宿しなければなりませんでした。両親の考えでスポーツ推薦の道が選択肢から外れ、学力で頑張ることになりました。
水泳以外の習い事をほとんどしてこなかったので、学習塾は新鮮で、とても楽しく通いました。肚を決めたらとことんやる、諦めない、突き詰める、妥協しない、短期集中が得意。持ち前の力を発揮して成績はどんどん伸びました。
自信がついてきたところで安全圏の高校を受験しましたが、結果は失敗。人生で初めての挫折を経験しました。今でもたまに思い出します。しかし、後々振り返るとこの出来事が、トライアスリートへの道に大きく進むことになる運命の別れ道でした。
第一希望は叶いませんでしたが、母校となる福岡県北九州市八幡東区の「九州国際大学付属高校女子部」(※現在は共学)に入学しました。当時、県内ではバドミントンと陸上長距離の強豪校でした。
入学説明会に行ったとき、迷わず陸上長距離部に入ることを決めました。子どものころ両親がよくテレビでマラソン中継を見ていた影響かもしれません。長距離やマラソンに馴染みがありました。
いよいよ高校生活が始まり、初めての部活動にワクワクしました。全く知識なく入部した陸上部は新入部員が8人いました。私以外はみんなスポーツ推薦で入学してきた、県内の精鋭ばかりでした。
そんな仲間たちの中で毎日ただひたすらに走りました。水泳で身体の基礎を作っていたこと、母の作った食事や教育方針が良かったのか、身体が大変丈夫だったので故障が少なく、また当時の顧問の先生の指導も合って、乾いたスポンジが水を吸収するように、走れば走るほど記録が伸びました。陸上のド素人が2年生に上がるころには県大会の3000mで入賞するほどになりました。
その当時は強くなりたい一心で、部の練習以外にも自分で考えた秘密のオリジナルメニューをやっていました。今考えると自分でも笑ってしまうのですが(笑)。
お風呂の湯船にもぐり何分息が止められるか、それを何セットもやってみたり、通学時、駅まで自転車で通っていたのですが、途中電信柱何個分と決め、その区間を息を止めてこいでみたり。思い立ったら夜中12時近くでも外に走りに行っていました(一応女子高生がなんと危険!)。
高校3年生でキャプテンに
故障が全くなかったと言えば噓になります。入部したての走り初めのころは、一通りやりました。その当時は練習を1日休むと遅れを取り戻すのに3日かかると言われていて、練習を休むことが怖くなっていました。痛みを隠して練習し続けて、スネを疲労骨折したこともあります。
別件でレントゲンを撮ったときに骨折の跡が見つかり、あの痛みは骨折だったのかと治った後で気が付いたこともありました。良し悪しは別にして、それだけ走ることに集中していて、そして夢中でした。
3年生になったとき、キャプテンを任されました。ちょうどその年は「全国高校駅伝大会」の記念大会で、福岡県代表になれなくても、地区代表で京都の都大路に行けるチャンスがありました。性格もありますが、チームを引っ張らなくてはいけないと、相当なプレッシャーがあったんだと思います。
10月の予選会に向け大事な走り込みをしていた夏頃、左足首に違和感がありました。違和感は次第に痛みに変わりましたが、ウォーミングアップで身体が温まれば痛みが消えていたので、今回の痛みも乗り越えられるだろうと思っていました。
しかし、痛む時間が長くなり、朝起きると床に足がつけないほどになりました。それでも練習を休むわけにはいかないと、走り続けました。予選会本場直前に痛みの限界がきて走れなくなり、結局そこから4年近く完治しませんでした。
チームは無事に地区代表の座を獲得し、夢の都大路へ。良かったという思いと義務を果たせなかったという思いと複雑な心境でした。しかしこの出来事も、私をトライアスロンでオリンピック出場へと向かわせる起爆剤となりました。
>>次回へ続く。
※1カ月に1~2回不定期更新。
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>>#001 オリンピアン関根明子さん、コラム始めます!~徒然なるままに~
九州国際大学附属高等学校女子部陸上競技部。ダイハツ工業株式会社 陸上部に所属。1998年トライアスロンへ転向し、10年間プロトライアスリートとして活動。2008年に引退後、現在は3人の子育てをしながら、トライアスロンやランニングのコーチとして活動中。2022年「プライベートサロン Ohana」を開業。1975年生まれ、福岡県北九州市出身。
《主な成績》
1998年 ソウル国際女子駅伝 日本代表、横浜国際女子駅伝 近畿代表
2000年 シドニーオリンピック トライアスロン日本代表
2004年 アテネオリンピック トライアスロン 日本代表
2006年 アジア競技大会 (ドーハ) 銅メダル