トライアスリートのマインドセット
--今、取るべき行動
新型コロナウイルスの影響が世界に広がる中、我々トライアスリートは何を考え、どう行動すべきか? 自身、KONA(アイアンマン世界選手権)11回出場という経歴をもつトライアスリートでもあるドクター(米国運動生理学・運動栄養学PhD.)彦井浩孝さんが、サイエンスに裏付けられた、その指針を示してくれた。
文=彦井浩孝
(文末にプロフィール)
新型コロナウイルス(COVID-19)への感染拡大が大きく危惧され、7都府県に緊急事態宣言が出された今、すでに6月末のレースまで延期や中止となり、トライアスリートの多くが目標の定まらない落ち着かない日々を過ごしていることだろう。
4月に入り、いつもなら今年もシーズン開幕といった期待感高まる季節であったはずが、COVID-19の影響は甚大で、いまだ先行きが見えない中、不安ばかりが募る毎日かもしれない。
自宅退避や活動の自粛が強いられている中、いつも以上にトレーニング時間や強度を上げてしまうトライアスリートもいるかもしれない。あるいは、この予期せぬ事態からのストレスを無闇にトレーニングで発散しようと、普段行わないようなクレージーなトレーニングを行ったりするかもしれない。しかし、これらはいずれも免疫機能をひどく損なうことになりかねないため要注意だ。
今はフィットネスやパフォーマンスを高める必要性はない。鍛え抜かれた体力と精神力が自慢のトライアスリートであっても、今は健康維持・管理に徹したい。
作り上げてきた健康とタフな精神、ライフスタイルを活用すべき時
海外のSNSでは自宅のベランダでフルマラソンを走ったと話題になったが、SNS映えだけを狙った行動は思慮に欠いたものにしか映らない。あるいは、自宅退避を強いられ感染の恐怖に苛まれている人々への冷やかし、蛮勇をふるった軽率な行為とも取られるかもしれない。発信力のあるエリートアスリートであるのなら、同友トライアスリートに真摯で思いやりのあるメッセージを送りたいところだ。
今は我慢の時なのだ。トレーニングやレースの痛みや苦しみをよく知っているトライアスリートなら、逸る気持ちを抑え、今、レースやトレーニングの自粛を我慢することぐらい簡単なことだ。レースでベストパフォーマンスを出すための綿密な計画力に優れたトライアスリートなら、プランを変更したり調整したりすることにも長けているはずだ。
また、感染を回避するためのソーシャルディスタンシング(人との近接を避け距離を取ること)もレースにおけるドラフティングルールを守るトライアスリートにとっては難しいことではない。体力的にも精神的にも余裕があるトライアスリートなら、ウイルスの脅威や、今降りかかるさまざまなストレスにも強いに違いない。
今こそ、これまでに作り上げてきた健康とタフな肉体と精神、そして、健全な生活習慣(食事、睡眠、ストレス管理)、バランスの取れたトレーニング習慣とライフスタイルを有意義に活用すべき時である。
トライアスリートとてCOVID-19にいつかは感染するかもしれない。しかし、その戦いに必ず勝利するに違いない。今は未曾有のチャレンジングな時である。しかし、トライアスリートや彼らにインスパイアされる人々ならきっと乗り越えられる。トライアスリートの忍耐力と不断の努力の精神でこの困難を打ち破ることができるよう、その持てる力を示そう。
トレーニングするべきか、すべきではないのか?
外出の自粛が求められる今、トライアスリートはトレーニングするべきか、すべきではないのか。答えはイエスであり、ノーでもある。レース自体は不要不急であるため出場すべきでないのはしかたないが、トレーニングや通常の運動習慣による健康維持は不可欠だ。したがって、トライアスリートに限らず運動習慣を継続するべきである。
しかし、いつものトレーニングに制限があるのは間違いないだろう。また、フィットネスやパフォーマンスを高めるためにハードなトレーニングを行うのではなく、あくまで健康管理を目的とすることに徹したい。
目標はレース出場というよりも健康維持にあり、ベースフィットネスや技術の習得を目指したトレーニングが中心になる。事態が収束した後にパフォーマンス向上のためのトレーニングをスムーズに再開できるよう健康維持に努めておけばよい。
また、無理にトレーニングを行い、ケガや病気をして、すでに負担が過剰になっている医療システムにさらなる負荷をかけてしまうことも避けなければならない。
いつものトレーニングができないから、予定していたトレーニングプランを実行できないから罪悪感をもったり、パフォーマンスの低下を憂慮したりする必要はない。これらは必然的なことだから。これらの状況の中から何かひとつでもポジティブなことを見つけ、これまでできなかった新しいことや目標にチャレンジすることもモチベーション維持には良いだろう。
トライアスリートに科学は何を伝えているか
我々の身体には、体内に侵入したウイルスなどの外敵と闘う働き、免疫機能が備わっている。その最前線はナチュラルキラー(NK)細胞が担っている。NK細胞は、リンパ球のひとつとして血液の中を巡回する免疫機能の中心的存在だ。
しかし、運動後、血中のNK細胞濃度やその活性が一気に低下してしまうことが知られている(Niemanら、1993年)。しかも、トレーニング強度が高ければ高いほど、トレーニング時間が長ければ長いほど低下の幅は大きくなる。
つまり、長時間にわたり連続するハードなトレーニングは免疫機能を抑制してしまう。このような高負荷はストレス反応を引き起こし、コルチゾールというストレスホルモンを分泌させる。このストレスホルモンがNK細胞の活性を低下させ免疫機能を抑制する。
運動後の免疫機能の低下は、通常では6時間程度で回復する。しかし、2時間以上にわたる高負荷の運動後では、回復に24時間以上も要することがある。栄養摂取や睡眠などのケアが十分でないと、1週間も元の状態に戻らないこともある。
免疫機能の回復に時間を要する間、「窓」が開かれたままとなる。このとき、「窓」から侵入したウイルスなどによって感染や炎症などのリスクが高まる。
運動負荷によって免疫機能が上る・下がるメカニズム
ランナーなどの持久系アスリートでは上気道感染(upper respiratory tract infection: URTI)、いわゆる風邪によるのどの炎症が多い。URTIが起こると、鼻水や頭痛、のどの痛み、咳、熱など風邪の症状が出る。これはトレーニング後の免疫機能の低下が大きな原因だ。今回のCOVID-19も多くがURTIを引き起こしているようだ。
習慣的に運動を行っている人の場合、そうでない人と比較して、免疫機能が高くウイルスなどからの感染症(インフルエンザなど)への罹患率が低い(Gleeson、2007年、Zhu、2020年)が、運動後はそのストレス反応により免疫機能が一時的に低下する。
その低下は、運動時間と強度によって、3時間から24時間続く(Gleeson、2007年)。マラソンなどの過酷な競技後では72時間も免疫機能が低下すると言われている(Nieman、2003年)。マラソン直後のランナーでは、同レベルのランナー(マラソンを走っていない状態)と比較すると約6倍風邪を引いた割合が多かった(Niemanら、1990年)。
したがって、これらのリスクを軽減するため、トレーニング直後から3時間から24時間は積極的な回復に努め、栄養補給(特に糖質補給によるグリコーゲン再合成。グリコーゲンは筋肉だけでなく、免疫細胞の重要なエネルギー源となる)と休息(睡眠)が重要になる(Peakeら、2017年)。トレーニング後に身体を冷やさないことも免疫機能維持に有効なため留意したい。
運動にはURTIを予防する効果があると多くの研究によって示されている(Moreiraら、2009年)。しかし、運動負荷(強度と時間)が高くなりすぎると、逆に免疫機能は低下してしまい、URTIリスクが高まる。
最大心拍数の75%を超えない低~中強度が
免疫機能を維持する上で必要
図のように、上気道感染リスクは運動しないよりはしたほうが低くなり、運動強度が高くなるにつれて低下していくが、ある程度の運動強度からはリスクがまた高まってくる「Jカーブ」を描く関係にある。
URTIリスクの最も低い運動強度がどれぐらいなのかは、個人の体力、栄養、睡眠などによって異なってくるが、中強度(運動中、会話できるレベル)の運動が過剰なストレスがなく、URTIリスクを軽減するにはちょうどよいだろう。
また、長時間に及ぶ運動もストレスが大きくなるため、短時間の運動に抑えたほうがよい。中強度の運動は脳内ホルモンの分泌を促し、日常のストレスを軽減してくれるかもしれない。
また、図ではフィットネス(体力)レベルが高まっていくと、同様にURTIリスクを低下させつつ、運動強度が高くなりすぎることによるリスクの増加を抑える傾向にもあることが示されている。つまり、フィットネスレベルが高いと「Jカーブ」が平坦に近づいていく。
このように、URTI予防に適度な運動を行うことは、免疫機能を高めるためよいことだが、フィットネスの低い人がいきなり運動を行うと、それが過剰になった場合にかえって悪影響を及ぼす可能性があるため注意が必要だ。
運動以外の精神的ストレス、飲酒などの生活習慣にも要注意
これまでトレーニングを行ってきている人でも、睡眠や栄養の状態、精神的なストレスなどの影響によって、いつもの運動が過剰なストレスになる場合もあるだろう。
オフシーズンを終えたばかりでまだ十分にフィットネスが高まっていない場合や、外出自粛でフィットネスが低下している場合も、急に運動強度や時間を増やすのではなく、疲労回復のサイクルを意識しながら徐々に行いたい。
Niemanら(1990年)によると、週に96キロ走るランナーと32キロ以下しか走らないランナーを比較すると、前者で風邪のリスクが2倍。これらのことから、週あたりおよそ10時間以上、1回あたり60分以上走らないことと、強度も最大心拍数(220-年齢)の75%を超えない低~中強度であることが免疫機能を維持する上で必要であると述べている。
習慣的なトレーニングは免疫機能を向上させるが、オーバートレーニングになると、たちまちそれを損なうことになる。
一方で、睡眠不足は自律神経のアンバランスを生じ、免疫機能を低下させるため、気管支の炎症などを起こしやすくなる(Fullagarら、2015年)。睡眠時間が7時間未満の場合では8時間以上の場合と比較して約3倍風邪にかかる可能性の高い(Cohenら、2009年)。
トレーニング後にアルコールを体重1kgあたり1.2グラム以上摂取すると著しいストレスホルモンの上昇を招き、免疫機能の低下を引き起こしやすい(Haugvadら、2014年)。運動以外の生活習慣にも気をつけたい。
森林の中での運動による免疫機能アップ
また、自然の中の運動が免疫機能を維持するのに役立つ可能性がある。これまでの研究で、森林の中の15分間のウォーキングが唾液中のストレスホルモンであるコルチゾールを低下させたことが示されている(Tsunetsuguら、2007年)。
また、森林の中の長時間ウォーキングがNK細胞の活性と数を増加させたことが示されている(Liら、2007年)。しかも、その活性はその後7日間以上にわたって増加し続けたこともわかった(Liら、2008年)。
これらのことから、アウトドアを走ることが許されるなら、トレイルなどを走る場所を選ぶことも有効だろう。「森林浴」による免疫機能を高める効果は植物から発散されるフィトンサイド(木のにおい成分である精油)によってもたらされる(Liら、2006年)。
>>後編「トライアスリートに推奨される『トレーニングガイドライン』とは?」へつづく
彦井浩孝
Hirotaka Hikoi
トライアスロン歴32年。アイアンマン出場40回以上、アイアンマン・ハワイ出場11回の強豪アスリート。オレゴン州立大学で健康人間科学研究科博士課程を修了。運動生理学・運動栄養学Ph.D.。神奈川県葉山町を拠点に、健康とトライアスロン、スポーツをテーマに活動する。NPO法人チャレンジ・アスリート・ファンデーション理事長。
エビデンスに基づいた、素晴らしい文章。参考になること多数。シェアさせてもらいます。
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