COLUMN KONA Challenge

最高齢アイアンマン世界王者・稲田弘さんに訊く、 人生100年時代を豊かに生きるためのヒント〈前編〉

投稿日:2020年5月30日 更新日:


ルミナ編集部

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NHKの社会部記者として各地の支局で活躍していた頃の稲田さん。トライアスロンに出会うのはまだ先の話だが、当時から登山にランニング、野球などスポーツを楽しんでいたという


Special Interview

先達トライアスリートに学ぶ、人生設計

#001 稲田弘さん(87歳)
〈前編〉トライアスロンに出会うまで

Interviewer 山口一真(MAKES/100年コーチ)

87歳でパワフルにチャレンジし続ける稲田さんから、心身ともに豊かな人生を送るために大切なことについて話を訊くスペシャルインタビュー。聞き手はアイアンマンに出場するトライアスリートで、MAKES KONAチャレンジの担当も務める資産形成のプロ、山口一真さん。

前編は幼少期からNHK記者時代まで、トライアスリートになる前の稲田さんの人生と時代の移り変わりに焦点を当てる。

写真は2018年、自身のもつ世界最高齢のKONA完走記録を塗り替えた瞬間 ©Kenta Onoguchi

稲田 弘 Hiromu Inada
1932年大阪生まれ。小学4年のとき和歌山県・田辺に一家で移り高校までを過ごす。早稲田大学を経て1957年NHK入社。社会部記者として忙しい日々を送りながら、登山やマラソンなどを楽しむ。60歳のとき妻の難病介護のため退職。 体力維持のため泳ぎ始め、マスターズスイムに出場するようになる。70歳でトライアスロンに初出場。76歳でアイアンマン・ジャパンに初挑戦。79歳でアイアンマン・コリアを完走しKONA(アイアンマン世界選手権)出場権獲得。2012年、80歳でKONAを初完走し、エイジ優勝。2016年・2018年にもKONAエイジ優勝を果たし、世界最高齢のKONA完走者として世界中から注目されている。

©Kenta Onoguchi

Interviewer
山口一真 Kazumasa Yamaguchi
メイクス取締役/100年コーチ。1982年東京生まれ。小学校から大学までバスケットボールに打ち込む。社会人になってスポーツから遠ざかり、一時期体重が100kgを超えたが、選手時代のノウハウを活かした食事と運動により1年間で40kgの減量に成功。2018年メイクスのKONAチャレンジ担当になったのを機にスイム・バイク・ランのトレーニングを始め、木更津トライアスロンでレースデビュー。秋にはアイアンマン台湾を完走した。以後も毎年アイアンマンや宮古島などに出場を続けている。また、世界のレジェンド稲田さんとの対談をきっかけに、自身もKONA挑戦を表明、チャレンジの模様は下記ブログやインスタグラムでチェックを。

「100年コーチ。」山口一真のブログ>>https://ameblo.jp/makes100coach

Instagram>>https://www.instagram.com/makes100coach/

はじめに

山口一真が稲田さんに会いたかった理由

山口 今、「人生100年時代」と言われています。100歳まで豊かな人生を送るためには、家族や仲間と過ごす幸せな時間、没頭できる趣味・ライフワークなどと共に、それらを実現するための資金も重要です。

メイクスは「心と体の健康寿命100歳創り」をキーコンセプトとして、多くの方が「人生100年時代」を心身とも健康で豊かに生きるために、不動産を軸とした資産形成のサポートを提供している会社です。

私たちがトライアスロンというスポーツをサポートしようと考えたのは、トライアスリートのみなさんが、スポーツを通じて人生をよりよくしようという理想を追求していることに共感したからです。

現在87歳のトライアスリート稲田弘さんは、世界最高齢のKONA(アイアンマン世界選手権)完走者であり、年代別世界チャンピオンに輝いている、アスリート中のアスリートです。

その稲田さんがなぜ87歳でもトライアスロンを続けているのか、続けることが可能なのか、どのような人生を歩まれてきたのかなど、お話を伺いたいと思います。

稲田さんの生き方は、人生100年時代を生きるトライアスリートにとって、多くのヒントを与えてくれると同時に、新型コロナウイルスの感染拡大で思うような活動ができない人たちに勇気を与えてくれるでしょう。

インタビューは4月下旬。Zoomを介して行われた

大阪に生まれ、戦争で和歌山に疎開

山口 稲田さんのお生まれはどちらですか?

稲田 1932年(昭和7年)に大阪で生まれました。父は衣服を縫う縫製工場を経営していたんですが、戦争で私が小学4年のとき、母の実家があった和歌山に一家で移住したんです。それから高校卒業まで和歌山で育ちました。6人兄弟です。父は和歌山で文房具店をやっていました。小学校の近くだったので、文房具の需要があったんでしょう。

山口 ノートや鉛筆など、当時の文房具はいくらくらいだったか覚えていますか?

稲田 覚えてないなぁ。路面電車の運賃が五厘(一銭の半分)だったのは覚えていますが。

山口 100銭が1円ですから、今とはまったく違いますね。私は1982年生まれで電車の初乗り料金が110円~120円くらいでした。人生100年時代には、物価の変動というのが重要な課題のひとつになってきますから、今回はそういう物価のこともうかがっていきたいと思います。

数字の豆知識>>物価上昇の歴史
第二次世界大戦直後の1945年から、日本は急激なインフレに見舞われ、物価上昇率は約60%、最大で125%(1947年)だったと言われています。銭・厘という通貨の単位はなくなり、1銭の100倍にあたる1円がお金の最小額になりました。その後1950年代後半から70年代の始めまでインフレ率は約4.5%でしたが、オイルショックによる狂乱物価で消費者物価指数は73年に11.7%、74年に23.2%など急激に上昇しています。

英語との出会いで広がった世界

山口 どんな少年だったんですか?

稲田 気が弱いおとなしい子どもでした。小学校時代は運動をやった記憶がないですね。中学では一応陸上部に入っていましたが、脚が遅くて、大会では補欠でした。

1932年(昭和7年)、大阪で生まれた稲田さん、幼少時代の写真

山口 後に早稲田大学に進まれるわけですから、勉強はできたんでしょう?

稲田 勉強はがんばっていましたね。英語の先生が広島大学からハーバードに留学して卒業したという、かなりレベルの高い先生だったんです。その先生にかわいがってもらったので、特に英語が好きで力を入れていました。

山口 そんなすごい先生がいらしたんですか。

稲田 その頃は5年制の旧制中学だったので、他にもすごい学歴の先生がいましたよ。

山口 稲田さんは語学堪能とのことですが、そういう英語との出会いがあったんですね。

稲田 近くの港に外国船が入港したときには、英語を話す人があまりいないので、私が引っ張り出されて外国人の船員との通訳をしていました。戦後になって、初めて衆議院選挙をやったとき、当時はアメリカ軍の統治時代ですから、司令部が視察にやってきて、私は中学3年でしたが、その通訳を務めました。

高校1年のとき、和歌山県で英語の弁論大会があって、1位はハワイ帰りの日系2世で、私は2位だったんですが、日本で生まれ育った学生としては1位ということで、県の教育委員会からアメリカに留学させてくれることになった。

ところが乗るはずだった船が何かの都合で運航中止になり、留学も取りやめになってしまいました。そのかわりに大阪のアメリカンスクール(米軍将校の子弟が通うハイスクール)に半年間国内留学させてもらいました。そこでバレーボールを初めてやって、運動の楽しさに目覚めました。

高校の先生に誘われて知った登山の楽しさ

山口 高校卒業後に上京し、早稲田大学で学ばれたわけですね?

稲田 そうです。ただ、高校3年のとき父が他界したので、一度は大学受験をあきらめて1年間、店に立っていたんです。それを知った担任の先生が、母親に「大学に行かないのは惜しいから行かせてやってくれ」と言ってくれて、母の実家の援助でなんとか大学に行くことができました。店は母と弟がやっていくことになった。

山口 若い頃、山岳部で登山をしていたとのことですが、これは大学時代ですか?

稲田 大学時代に本格的に上るようになったんですが、きっかけは高校時代です。囲碁友達でもあった数学の先生が山好きで、誘われて槍ヶ岳に登ったのが最初でした。一応山岳部だったんですが、部員は私だけ。先生としては山岳部を作れば学校から補助金が出るので、それが目当てだった(笑)

山口 人生を豊かにする人との出会いを色々していますね。

稲田 私の人生は人との出会いでうまくいった部分が大きいです。ラッキーでした。

山口 豊かな人生を送った人ほど「自分はラッキーだった」と言いますが、出会いを生かしたからこそ豊かな人生になったとも言えそうです。

高校時代に出会った登山は、大学時代、社会人になってからも続く趣味のひとつに

稲田 私は山で滑落したり凍死しかけたり、何度か危ない目に遭っているんですが、死なずにすんだのもラッキーでした。

特に危なかったのは槍ヶ岳で凍死しかけたときです。これは大学を卒業してからですが、夏に夜行列車でろくに寝ないで朝から歩き始めたんです。槍ヶ岳は行程が長いので、最後の稜線にさしかかったときにはすでに日が暮れ、疲れと眠気から知らないうちに岩にもたれて眠ってしまったんです。そのまま寝ていたら凍死していたところでしょう。

普通は夜に歩く登山者などいないんですが、そのときたまたま男性のふたり組が通りかかり、槍沢小屋まで背負って運んでくれたらしいんです。翌朝目が覚めたときにはすでにそのふたりは発った後でしたから、話を聞くこともできず、なぜそんな夜に通りかかったのかもわからないままです。

山口 それはすごい経験ですね。

数字の豆知識>>学費の変遷
1950年の私立大学文系(東京)の授業料は約8,400円でしたが、60年代に入ると20万円を超え、80年代には40万円、90年代半ばに60万円を超え、2019年には約80万円まで上がっています。

貧乏大学生のサバイバル術

山口 大学時代はどんな生活をしていたんですか? たとえば、アパートの家賃はいくらくらいだったんでしょうか?

稲田 早稲田の学校の近くや調布あたりなど、5カ所くらい転々としましたが、朝食付きで月5,000円くらいだったと思います。入学したのが1953年ですから、ラーメンが30円くらいとか、そんな時代です。

山口 私は東京の豊島区生まれですが、そのあたりのアパートが今は月10万円くらいですから、これもかなり違いますね。早稲田エリアの学生向け食堂はどんなものがいくらくらいだったんでしょうか?

稲田 貧乏学生でしたから、外食なんてできません。最初の頃は近くのパン屋でコッペパンを買い、店の女の子にタダでバターをもらって、市場で捨てられるキャベツの外側の部分をもらって炒めてパンと食べるといった食生活でした。まわりもみんな貧乏だったから特に苦労したということではないんですが。

早稲田大学在学時、男声合唱団「グリークラブ」に所属し舞台に立っていた稲田さん(写真中央)

山口 アルバイトはしましたか?

稲田 学生生活に慣れてきて、いろんなアルバイトをやるようになりました。木場で材木を囲んだり、貿易会社の社長の通訳をしたり、デパート向けのウールのネクタイを編んだり、夏休みには山小屋に荷物を運び上げるボッカというのをやったり。

金額(時給)は覚えてないですね。どれも安くて、ないよりましという程度でした。そのうち米軍キャンプのショーで歌を歌うようになって、月8,000円くらいになりましたから、これが一番稼げました。NHKに入ったときの初任給が7,800円でしたから、それよりよかった。これを始めてから、他のバイトはやめてこれ一本になりました。

山口 ショーで歌ったんですか?

稲田 早稲田でグリークラブという男声合唱団にも入っていたんです。その選抜グループで米軍キャンプのショーに出て、アメリカの歌なんかを歌っていました。毎日トラックに乗せられて、国立や横浜などいろんなキャンプに連れて行かれて歌うんです。1ステージ3曲で大体毎晩2ステージ。クリスマスなんかは徹夜で10ステージやりました。

当時1ステージのギャラが100ドルだったらしいんです。1ドル360円の時代だから36,000円。ただし、米軍と交渉するマネジャーや仲介業者が間でかなり抜くし、衣装代なども差し引かれて、私がもらえるのは月8,000円くらい。それでも学生としてはいい収入でした。食生活も向上したし、授業料もそこから払い、仕送りをしてもらわなくてもすむようになりました。

数字の豆知識>>家賃と収入の推移
東京の賃貸住宅の家賃は、1950年代初頭には3.3㎡あたり500円未満でしたが、1980年代末のバブル期まで急激に上がり続けて8,000円を突破、2000年代の一時期9,000円を超えましたが、2019年は8,848円となっています。

なりゆきでNHKの社会部記者に

山口 NHKに就職されたのは、放送に興味があったからですか?

稲田 いや、たまたま募集があって、応募したら受かったというだけです。他に新聞社にも応募しましたが、なぜか途中でやめましたね。教育学部で教員の資格も取っていましたから、特に放送局に入りたいという気持ちがあったわけじゃない。たまたまです。

山口 NHKの初任給が7,800円だったということですが、これは当時としてはよかったんですか?

稲田 いや、安かったですよ。NHKの給料は昔から今に至るまで安いんです。記者クラブで会う民放の記者たちと話すと、民放の給料のほうがはるかに高かった。ただ仕事は充実していました。決まった休みというのがなくて、事件があればいつでも呼び出されて駆けつけなければいけないので、きつかったですが、何もなければ昼間から飲んだりもできる。休暇は申請すれば取れますから、旅行にいくこともできるんですが、連絡はつくようにしておかなければならない。旅先から急に呼び戻されたこともあります。

各地の支局などに単身赴任することも多かった稲田さん(写真左端)、職場の仲間とマラソン大会に出場したり、草野球を楽しむなどスポーツも楽しむ機会も多かったという

通説を覆した「信長の墓」発見をスクープ

山口 扱った事件の中で特に印象に残っているのは何かありますか?

稲田 和歌山放送局に勤務していたとき、弘法大師が開いた高野山金剛峯寺という真言宗の総本山で織田信長の墓を発見したことですね。高野山には戦国大名の墓がたくさんあるんです。地元の菩提寺にある墓とは別に、死後家族や家臣が墓を建てる。豊臣秀吉や徳川家康、武田信玄、上杉謙信、明智光秀など、生きていたときは敵味方だった武将も仲良く葬られている。ところが織田信長の墓だけはなくて、「信長が高野山を攻撃したからだ」というのが当時は通説になっていた。

山口 それを稲田さんが覆した?

稲田 たまたま近くの別の寺を取材したついでに高野山に立ち寄り、宝物館の館長に取材したんです。そのとき見せてもらった古文書に「信長の小墓一基」とあるのを見つけた。これは大発見になるということで、高野山大学の学生を動員して探しているところを撮影して、その日は引き上げたんですが、夜中に大学の先生から電話がかかってきて、「見つかった!」というんです。それで現場に駆けつけ、朝から全国に中継しました。

山口 大スクープですね。

稲田 武将たちの墓が点在するエリアの中でも特に弘法大師の御廟に近い奥まったところに、信長の立派な墓が木立に埋もれ、苔に覆われて隠れていた。彫られている戒名を名古屋の織田家の菩提寺に照会すると、たしかに一致する。刻まれている年も本能寺の変があった年で、殉職した武将たちの墓も並んでいる。これは間違いないということで、高野山を攻撃したから信長の墓はないという説は、「攻撃した武将も仏の慈悲の精神で、赦して迎え入れている」という説明に変わりました。

山口 特ダネに報奨金は出ないんですか?

稲田 報奨金も賞も何もありません。名誉だけ。それでも運、巡り合わせのようなものを感じましたね。たまたま別のお寺を取材したついでに立ち寄っただけなんですから。

山口 信長のパワーを稲田さんが引き継いでいるような気さえしますね。

1964東京オリンピックとTOKYO2020

山口 1964年の東京オリンピックで印象に残っていることはありますか?

稲田 いろんなことが印象的でした。特に開会式は感動的しましたね。カラー放送が始まってまもなくでしたから、放送に関わる人間としては、カラーで放送されたことが特に記憶に残っています。

山口 印象的だった競技や選手は?

稲田 マラソンのアベベが圧勝したことですね。1960年のローマ大会では裸足で走って世界を驚かせ、東京では淡々と独走して次元の違う走りでした。

山口 オリンピックの取材はされたんですか?

稲田 いや、私はずっと社会部ですから、取材はしていません。1970年の大阪万博は取材しましたが。

山口 今回の東京オリンピックは延期になってしまい、残念でしたね。来年開催されることを願いたいですが、稲田さんが今、世界最高齢のアイアンマンとして見るオリンピックはどのようなものでしょうか?

稲田 種目も年齢層も全く違う世界ですから、特にアイアンマンとしてどう見るといったことはないですよ。

山口 世界が注目するという意味では稲田さんもオリンピック選手に負けていないと思います。スポーツ選手のセカンドキャリア、競技者として現役を退いてからの人生をどう過ごしていくか、社会にどう適応していくかが今関心を集めていますが、稲田さんのように87歳でバリバリの現役としてレースに出ているアスリートは、その存在も発信するメッセージも注目されています。

稲田 そういう声をよく耳にしますね。

山口 本人が思っているよりはるかにそういう声は多いと思いますよ。

奥様と横浜・山下公園の氷川丸前で

奥さん任せだった60歳までの資産形成

山口 難病を患う奥様のために、60歳でNHKを退職されたとうかがいましたが、老後のための資産形成はどのようにされていたんでしょうか?

稲田 すべて妻が管理していたので、私は自分の給料がいくらかすら知らなかったんです。妻も仕事をしていましたから大変だったと思います。株式投資をやったり、老後のための養老保険のようなものに入ったりしていたんですが、それもすべて退職してから知りました。
山口 資産形成はこれからますます重要になってくると思います。1991年のバブル崩壊まで、定期預金の利息が5%くらいありましたが、今は定期預金でも0.002%。資産運用しないと増やすことは不可能です。

山口一真の取材後記❶

豊かな人生を送る人とは
幸運な出会いを生かす人

稲田さんにお話をうかがってまず感じたのは、幸運を生かす努力、積極的な姿勢の大切さです。中学時代のハイレベルな先生との出会いから英語に力を入れたこと、高校の先生に誘われて始めた登山など、ラッキーな出会いをきっかけに始めたことが、その後の稲田さんの豊かな人生のベースになっていったのではないかと感じました。

大学時代の苦労話も興味深かったですが、当時から物価がものすごく上がっているということを改めて感じました。平成不況の時代以後しか経験していない若い世代は、「物価はずっと低迷している」と思いがちですが、時代状況の変化によって物価は激しく上昇することもありえますし、今でもアジアの経済成長している国々では物価が上がっています。

トライアスロンはツールや遠征費など、なにかとお金がかかるスポーツです。昨年のKONAチャレンジEXPO開催に合わせたLuminaのユーザー調査では、アイアンマン経験者が1年間にかけるトライアスロン関連費用は平均84万円(大会出場50万円+用具・用品34万円)という結果も出ています。

稲田さんのように年に複数回、海外のレースに出ているアスリートは、費用を年金だけでまかなうのはきついかもしれません。奥さんが資産運用をしていらしたという話を聞いて、これもいい人と出会い、その出会いからすばらしい生き方を生み出す稲田さんらしいと思いました。

>>>稲田さんインタビュー後編に続く

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メイクスは、トライアスリートの人生100年を応援します。

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