COLUMN

【本格的にトライアスロンの道へ】関根明子の徒然なるままに#004

投稿日:


ルミナ編集部

text by:

2003年蒲郡ワールドカップ

©Frank Wechsel/ITU

前回のコラム>>【トライアスロンとの運命的な出会いのきっかけとなった人】#003

飯島健二郎監督との出会い

猪谷千春会長(当時日本トライアスロン連合会長、現名誉会長)から日本トライアスロン連合へ繋いでいただき、私の受け入れ先としてご紹介していただいたのが、当時ナショナルチームの監督をされていた飯島健二郎さん(現トーシンパートナーズチームケンズ監督)でした。

飯島監督に初めてお会いしたのは、まだ上京前の7月頃だったでしょうか。トライアスロンでシドニーオリンピックを目指したいのであれば、一度実力を見させてくださいということで、東京都西東京市にあるチームケンズの活動拠点で、スイム1500mのタイムトライアルを行うことになりました。

陸上の補助トレーニングで水泳は行っていたものの、1500mを泳ぐための練習方法もペース配分も分かりません。タイムトライアルに向け、自己流で何度か市民プールに通い練習をしました。

トライアル当日、初めて泳いだ1500mのタイムは22分27秒。飯島監督に後に聞いたことですが、「22分30秒以内ならコーチを引き受けよう」と思っていたそうで……ギリギリセーフでした。

あと3秒遅かったら、もしあの時、飯島監督から指導を受けられなかったら、私のオリンピック出場はなかったと思います。私のトライアスロン人生に大きな影響を与えてくださった恩師です。

関根明子さん 飯島健二郎監督 シドニーオリンピック

飯島健二郎監督左と

オリンピックまであと2年

1998年の夏から、2000年シドニーオリンピックに向けて本格的なトレーニングが始まりました。オリンピック本番まで2年。代表最終選考の世界選手権までも1年9カ月しかありませんでした。

世界選手権に出場するためには、国内で勝ち抜かなければならないということも大事でしたが、大きな壁は世界ランキングでした。世界選手権に出場するには基準があり、世界ランキング50位以内に入る必要がありました。

他の選手が4年間で累積するランキングポイントを、私はトレーニングしながらレースを転戦して、1年半で獲得しなくてはなりませんでした。やるしかない、時間がない、失うものはない、そんな状況が短期集中型の私に火をつけました。

朝、自宅を7時頃に出発し、夕方5時過ぎまで戻らない。食事も練習と練習の合間を縫って移動時間に摂り、仮眠もする。生活は至ってシンプルで、練習するか食べるか寝るか。移動を含め、1日のほとんどをトレーニングに費やしました。

関根明子さん

シドニーオリンピック直前にゴールドコースとで行った代表合宿にて

大胆でタフなトライアスロンの世界へ

トライアスロンへ転向して苦労したことは、食事と練習時間の長さ、そして筋力不足でした。陸上選手時代は、いかに体脂肪を落とし身体を軽くするかが重要とされていたので、食事制限も厳しく、体重管理も大変でした。スタミナはありましたが、筋肉も走るために必要なものしかなかったので、最初は3種目をこなすだけで大変でした。

陸上時代の恩師鈴木従道さん(前回コラム参照)の言葉でとても印象に残っている言葉があります。「軽自動のボディーにベンツのエンジンを積む」。当時は、走ることに必要のないものは極限まで落として身体を軽量化し、良いエンジンを積む(心肺機能を高める)ことが勝利への近道だと考えられていました。

トライアスロンへ転向してから、なかなか練習量に見合った食事量が摂れず、体重の維持(落ちないように)に苦労しました。なるべく余分に食べないように節制してきた世界から、食べろ食べろという世界に変わったわけです。

あとは練習時間です。陸上時代は長くても1日4時間程度。夏であれば早朝や夕方など、なるべくトレーニングのダメージが残らないように、涼しい時間帯を選んで練習していましたが、トライアスロンは逆。暑くても寒くても雨が降っても関係なし。バイク練習の途中で食事をして、またすぐに再開する。あれ? 消化時間は考慮しないのですか? と(笑)。繊細だった陸上選手から大胆でタフなトライアスロン選手へ。カルチャーショックの連続でした。

飯島コーチの指導はとても厳しかったです。練習量の多さも特徴でした。もうこれ以上はできません……と無言で抵抗しても、設定タイムをクリアするまで練習が終わらないこともありました。

最初のころはなかなか自分の殻が破れず、限界に挑むことができませんでしたが、少しづつ粘り強さを身につけ、変化していきました。わがままで気が強く大変生意気だったので、飯島コーチにはたくさんの我慢とご迷惑をかけ、ぶつかる場面もたくさんありましたが、最終的には選手に対する信頼と競技に対する情熱で、素晴らしいコーチングをしていただきました。トライアスロンを通じて、選手としても人間としても大きく成長させていただきました。

陸上時代はあまり本番に強くなかった私ですが、トライアスロンでは狙ったレースで確実に結果を出せるようになっていきました。さて、それはなぜでしょう? 答えは、レースより練習のほうがきつかったから。普段の練習は1日6時間以上でしたが、レースの日はどんなに苦しくても2時間集中すれば終わる。レースの日は心がウキウキしました。2時間頑張ったらあとはフリーだ! と。心身ともにタフになりました。

関根明子さん 関根陽一さん

シドニーオリンピックレース前日ご主人と

タイヤにかみつく!? 初めての海外合宿でハングリーに

初めての海外合宿はオーストラリアでした。転向してからわずか4カ月ほどで行いました。飯島コーチの方針で、さまざまな経験を積むために、オーストラリアのメルボルンに1カ月間滞在し、合宿を行いながら、地元のローカルレースに出場しました。滞在中3レースに出場し、晴らしい経験を得ました。

1レース目では高波と落車によるDNFです。日本では絶対にスイムを中止するような、まるでそそり立つ壁のような波を乗り越えて無我夢中で泳ぎました。3レース目ではパンクをしました。スタート直後に気がつき、コース上で修理してからレースを再開して40㎞単独で追い上げて3位に入りました。

接着剤のばっちりついたタイヤがなかなかホイールから外れず、焦ってタイヤに嚙みついて、歯でタイヤをはがそうとした様子を撮ったビデオがまだ残っています。笑い話ですが、その時は一心不乱で真剣です。もし今の選手と私たちの世代の選手との違いは何かと聞かれたら、多分このエピソードを話すでしょう。ハングリーは教えられるものではなく、出てくるものだと。

世界ランキングのポイントを獲得するために、フランス、韓国、ハワイ、国内を転戦し、5連戦というのも経験しました。5戦目のハワイでは疲労がたまって筋肉の張りがなくなってしまい、練習や所用で外出する以外は、食事もすべてベッドの上で過ごすという状況でした。

そんな状況もサポートしてくだったスタッフの方々のおかげで無事に乗り切ることができ、ポイントも獲得することができました。時差調整のやり方、食事の摂り方、疲労回復方法、疲労時の調整方法など、この経験がさらに私を強くし、オリンピック代表獲得に向け自信をもたらしました。

関根明子さん

5連戦一戦目のW杯モナコ大会レース前日

 

>>次回へ続く。
※1カ月に1~2回不定期更新。

【コラムを最初から読む】
>>#001 オリンピアン関根明子さん、コラム始めます!~徒然なるままに~
>>#002【水泳から陸上へ――高校受験が転機に】
>>#003【トライアスロンとの運命的な出会いのきっかけとなった人】

関根明子 Akiko Sekine
九州国際大学附属高等学校女子部陸上競技部。ダイハツ工業株式会社 陸上部に所属。1998年トライアスロンへ転向し、10年間プロトライアスリートとして活動。2008年に引退後、現在は3人の子育てをしながら、トライアスロンやランニングのコーチとして活動中。2022年「プライベートサロン Ohana」を開業。1975年生まれ、福岡県北九州市出身。
《主な成績》
1998年 ソウル国際女子駅伝 日本代表、横浜国際女子駅伝 近畿代表
2000年 シドニーオリンピック トライアスロン日本代表
2004年 アテネオリンピック トライアスロン 日本代表
2006年 アジア競技大会 (ドーハ) 銅メダル

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