【From Readers】
ロサンゼルス在住の“ニック”ことトライアスリートの出口学さんがRim to Rim to Rim(またはR2R2R )と呼ばれる、グランドキャニオンの南北リム往復チャレンジ。その様子を昨年寄稿してくれた「Rim to Rim」についでレポートしてくれた。
グランドキャニオン南北リム往復72㎞
谷は漆黒の闇に包まれ、見えるのはヘッドランプの明かりが照らし出す小さなエリアだけだ。先程までぼんやりと見えていた巨大な怪物のような岩影は、夜のとばりが下りるのと共に姿を消した。グランドキャニオン、サウスリムに向かうブライトエンジェル・トレイル。4時間前に谷底にあるファントムランチを大勢のハイカーからの声援を受けて発ってから、誰にも会っていない。
聞こえるのは自らの荒い息遣い、靴がトレイルを蹴る単調な連続音、そして虫だか鳥だか区別がつかない奇妙な生き物の鳴き声。世の中から自分以外の人間が全ていなくなったような感覚に襲われる。時折、対になったビー玉のようなものが不気味にヘッドランプの光を反射する。この辺りにはマウンテンライオンと呼ばれる大型の肉食獣が生息する。ピュ-マあるいはクーガーとも呼ばれる夜行性の獣は、大きいものでは90㎏にも達すると言う。
人間を襲うケースは極めて稀と言うが、疲労困憊した孤独な山中で頭に浮かぶのは、たいがいろくな事ではない。些細な事でもひとたび不安の扉が開くと、臆病と言う名の風が否応無く吹き込んでくる。武器になりそうなものを探す。トレッキング・ポールと、握りこぶしの中に隠れてしまうほど小さいペッパースプレー。おそらく痴漢撃退に一役買う程度だろう。グランドキャニオンの夜中のトレイルで、五十路のアジア人を襲う痴漢がいるとは思えない。残念ながら効果の程を試す機会はなさそうだ。
暗闇から一撃必殺の勢いでマウンテンライオンが襲いかかってくる、侍が刀を抜くように素早くポケットからペッパースプレーを取り出す。勢いよく噴射と思いきや「ピュー、ピュー」と虫除けスプレーほどのショボイ霧……笑みがこぼれる。暗闇の中で一人で想像を巡らせ微笑む余裕は未だある。まだ行ける。残すところ一マイル、あるいは二マイルか?
今朝4時半にサウスカイバブ・トレイルヘッドを単独でスタートし、リム・トゥー・リム・テゥー・リム(Rim to Rim to RimまたはR2R2R )と呼ばれる、グランドキャニオンの南北リム往復チャレンジの途についてから、既に16時間以上走り続けている。今となっては、歩いていると言った方が正しいだろう。
リム・トゥー・リムへの挑戦は2年前
今回は単独で挑む
2年前にリム・トゥー・リムと呼ばれるグランドキャニオン横断ランを友人と共に走りきった。谷底の気温は45度。灼熱の太陽、想像を遥かに超える絶景、ノースリムに辿り着いた時の達成感、祝杯のビールの美味さ。それらは今でも鮮明に記憶に残っている。ロサンゼルスへの帰路、車中では既に次なるチャレンジ、南北リム往復R2R2Rに思いを馳せていた。
今回は単独で挑む走行距離72kmのチャレンジ。一気にコロラド川を目指し1500m駆け下り、続いて1800m上ってノースリムに到達。そこが折り返し地点となる。最短で16時間、20時間までは覚悟している。暑さを承知の上で日照時間の長い6月を選んだ。天気予報を毎日チェックし、気休め程度であるが気温の低い今日の決行を数日前に決めた。低いと言っても谷底の気温は38度には達するだろう。
昨日、ロサンゼルスから800km運転しグランドキャニオン入りした。バックカントリー・オフィスで念のためトレイルのコンディションを確認。パークレンジャーからは、6月のR2R2Rは熱中症のリスクが極めて高く非常に危険。谷底での死亡ケースもあるので止めたほう良いとの忠告を受けたが、一昨年の6月に45度の猛暑の中R2Rをしたことを告げると、「折り返し地点であるノースリムに着いた時点で、疲労の程度を冷静に見極める事。今回を逃してもまた次の機会がる」とのアドバイス。
最後は、「途中、何かあってもレスキューはギャランティーできない。全ては自己責任」と念を押された。危険が伴うのは頭では分かっていても、言葉にされると重く圧し掛かってくる。その後、車中で眠りにつくまで、不安は脳裏を離れなかった。
翌朝は、前日の不安はどこ吹く風。チャレンジへの期待に胸を膨らませ、日の出前にヘッドランプを装着して、足取り軽くサウスカイバブ・トレイルヘッドを出発した。カイバブとはグランドキャニオンの表面部分を覆う約2億5千万年ほど前に堆積した地層の名称である。今回が3度目となる、このサウスカイバブ・トレイルの景色であるが、見飽きる事のない、心を洗われる美しさだ。
朝の張り詰めた冷気が心地よい。過去にもそうであった様に、今ここにいて、この景色を見ることが出来る幸せを感じられずには要られない。ともすると絶景に気を奪われて足元への注意が疎かになる。崖から足を踏み外したら最後、どこまでも転がり落ち、太古の地層の一部になる。
トレイルは階段状の部分が多く、走りやすいとは言い難いが、文句でも言おうものなら、命がけでトレイルを作った人たちに申し訳ない。足を挫かないように着地場所には細心の注意を払う必要がある。
急勾配のトレイルでは、刻一刻と周囲の景色や岩の色が変わる。至福のサウスカイバブの下りは、2時間程と映画一本分くらいの長さであるが、如何なる映画よりも感動的である。谷底の地層はおよそ18億年前のもの。2時間で18億年の地球の歴史を遡れる場所は世界広しといえども、おそらくグランドキャニオン以外に無いだろう。60秒毎に1500年の時を遡る計算になる。まさに時空を越えた旅である。
しかし、この時間を超越した太古への旅も長くは続かない。今回も瞬く間に終焉を迎え、惜しまれるほど早くコロラド川に到着。南北両岸を結ぶ黒く塗られた吊り橋を渡り、ファントムランチに到着したのは7時前。ここまでは、ほぼ予定通りのペースだ。
ロッジ脇で小休止をし、水の補給をするが、朝早いため人は疎らだ。早起きのハイカー数名と挨拶を交わし、上りの途につく。ここから距離22km、標高差1,800mのノースカイバブ・トレイルが始まる。
ファントムランチを後にして、マンザニータ・レストエリア(Manzanita)までの14kmは緩やかな上り。それ以降の8kmで一気に1,200mを上る急勾配となる。2年前のチャレンジでこの勾配のきつさは身をもって知っている。気温がまだ低いうちに距離を稼ぎたい。時間との戦いである。今回は残念ではあるがリボンフォールは諦めよう。
コロラド川の支流に沿ったトレイルは思いのほか平坦でスピードが上る。しかし、この緩やかな上りも、低い気温も長くは続かない。やがて勾配は急になり、気温も上る……。
息が上っている。汗が額を流れ落ちる。既に陽は高い。ノースリムから下ってくるハイカーが目立つようになってきた。すれ違いざまの挨拶は、「グッドモーニング」。サウスリムを発ったのは随分前のような気がするが、未だ午前中だ。2年前にも通って、知っているはずのルートであるが思いのほか長い。行けども行けども急勾配の上りが続く。
片道21マイル(34km) のはずだが、愛用のガーミンは既に26マイルを表示している。毎度の事だが、谷底ではGPS機能は殆ど役に立たない。急勾配は心拍数を抑えるためにも走らずパワーハイク。それでも疲労が蓄積してくるのが分かる。未だ、折り返し地点にも達していない。
助けは来ない
すべては自己責任
昨日のレンジャーの忠告が幾度となく頭をよぎる。暑さに喘ぎながら、あと少しでノースリムに着くと淡い期待を抱くが、スイッチバックを曲がるたびに見事に裏切られる。「上ってくる者には道を譲れよ~」声には出さないが、疲れてくると愚痴も増えてくる。こんな調子で折り返せるのか、復路の谷底で熱中症になったらヤバイなぁと、不安が頭を持ち上げてきたのはこの辺りである。
気が付くと、赤いティーシャツ姿で首からメダルを提げたハイカーが沢山いる。よく観ると、グランドキャニオン・ハーフマラソンのティーシャツ。今朝ノースリムで開催されたトレイルランの大会だ。知り合いがこの大会に参加している事を思い出し、下ってくるハイカーに目を凝らすが、残念ながら世の中それほど小さくはない。
息を切らせながらも、軽快に下ってくるハイカーには挨拶をする。メダルを提げたランナーには完走おめでとうの一声を掛け、笑顔のエネルギーを貰い、何とか自分を励ます事2時間。漸くノースカイバブ・トレイルヘッドに到着した。ここまで、出発してから7時間48分。予定より40分ほど早く折り返し地点に着いた事になる。その一方で足腰は予想以上に疲れている。レンジャーの忠告に従って、冷静に残された体力を見極める必要がる。
先ずは、給水所の水道から勢いよく流れ出す冷えた水で喉を存分に潤し、そして栄養補給。芝の上で横になり暫しの休憩を取った。レンジャーの忠告を頭の中で繰り返しながら、自分なりに疲労の程度をチェックしてみる。休憩している数分間で体力・気力共に回復してくるのが分かる。隣には谷底に一泊してR2Rを成し遂げた30歳台くらいの男性ハイカー。嬉しそうに、周りの人達に声を掛けている。だいぶ元気になってきた。「大丈夫だ。まだ行ける」と、弱気な自分に喝を入れる。
ハイカーと暫しの歓談の後、写真を撮ってもらい、励ましの言葉を背に受けて折り返し地点を後にする。空は予報通り雲に覆われてきた。まだ正午を廻ったばかり。ここから先は未知の領域、長い一日になりそうだ。
往路ではきつい勾配に喘ぎ、背後の景色を楽しむどころではなかった。下りでは先程とは打って変わって気持ちが高揚している。軽いステップを踏みながら絶景を楽しむ余裕もある。顔を真っ赤にして上ってくるハイカーにも元気よく挨拶。と思いつつ、苦しむ人達を横目に、自分だけ上機嫌は良くない。声のトーンを少し抑えよう。そして、上りのハイカーに道を譲るのを忘れないようにと、先程の自分の苦労を思い出し戒める。
下りは否が応でもスピードが上る。その一方でトレイルは、狭いところでは幅1メートル程度。横は数百メートルの断崖絶壁。無理は禁物、慎重に行くに限る。上りで擦れ違ったハイカー達が戻り始めているようだ。頻繁に声を掛けられるようになってきた。
「何か忘れ物したの?」から始まり、「R2R2Rチャレンジ?」、「何時に走り始めたの?」、「凄いね~」など。そんな中、再度、例の赤いティーシャツにメダルを提げたグループに遭遇。朝に走ったばかりのレースの興奮の余韻もあってか、そのうちの一人の女性が驚きを隠さずR2R2Rについて、あれこれ聞いてくる。最後には「ランナー仲間に見せるから一緒に写真撮らせて」と、渓谷をバックにツーショットの自撮りをパチリ。何だか有名人になった気分だ。「怪我しないで頑張ってね~」と赤い集団に見送られて、意気揚々と谷底へと向かう。見知らぬ人からでも、声援を受けると言うのは本当に励みになる。
気温は30度を超えているだろう。空は雲に覆われており、更に下り。暑さはそれほど苦にならない。ノースリムから降りてくるハイカーの多くは、既に引き返してしまったようだ。一時間も下ると、人の姿は全く見えなくなった。唯一出会ったハイカーはマンザニータ・レストエリアにて休憩していた30歳前後のカップル。一日で南から北へのR2Rチャレンジ中。丁度、私が到着する前に、「片道でこんなに大変なのに、往復する人なんかいるのかねぇ?」と話をしていたと言う。そこに、丁度いいタイミングでR2R2Rのチャレンジをするランナーが立ち寄った。水補給をする僅かな間であるが、お互いを激励する言葉を交わし、再び谷底目指す。
この後、谷底のファントムランチに着くまで、静寂に包まれた緩い下りをトレイルランナーの幸せを噛み締めながら快調に走ること約3時間。結局この間、コットン・ウッドのキャンプサイトも通過してきたが、一切ハイカーの姿を見る事はなかった。嬉やら、寂しいやら。
もう50kmは超えた事だろう。うち30km以上は下りだが、幸い膝の痛みはない。それでも疲労はだいぶ溜まっているはずだ。標高が下がり、気温は上ってきている。気を引き締めなくてはならない。10数億年前の地層に囲まれた孤独なトレイルで、自分自身に繰り返し言い聞かせていたのは「水分補給を忘れるな」そして「調子に乗るな」。
過去にも絶景に目を奪われたり、ついボーッとして転倒した事は一度や二度ではない。多くの場合は疲労によるものではなく、今回のように調子よく走っている時だ。誰もいない谷底で怪我でもしたら、サウスリムのケンネルに預けてきた愛犬のブラウニーを引き取る者がいなくなる。と、どうでもいい事が脳裏によぎる。実は、今回も二年前同様に、家族は夏休みを利用してメキシコ帰省中。そのためゴールデンレトリーバーのブラウニーを連れてきている。無事に帰還して、明日の朝一番で迎えに行こう。
ファントムランチは谷底のオアシス。敷地内には唯一の輸送手段として活躍するラバが10頭ほど。そして宿泊用のバンガローが点在する。近づくにつれて、メインロッジの前の広場に集って歓談するハイカーたちが見えてきた。ロッジにはいつも多様な人たちが集う。朝方もボトルに水を入れている時に、韓国人から声を掛けられた。みな出身国も人種もバラバラ。知らない者が集まっても、グランドキャニオンの魅力を肴に話しは尽きない。
水補給で広場に立ち寄ると、一人の女性が声を掛けてきた。午前中に何処かで擦れ違ったらしい。R2R2Rかと聞かれ、Yesと答えると、その場にいたハイカーたちに「この人、R2R2R挑戦中よー」と大声で。ボトルに水を入れ、栄養補給を採り、夜に向かっての準備をする間、大勢のハイカーから「以前にもR2R2Rした事ことあるの?」「今ボトルに入れた粉末は何?」「ところで何歳?」など質問攻めで休む暇もない。
またもや有名人になった気分だ。僅かばかりの休憩の後、いざ出発。すると20名程いたハイカーたちが「頑張れよー」の声援と拍手で送り出してくれた。大勢に見送られる中、トボトボと疲労困憊した姿を見せるわけにも行かず、笑顔で手を振りながら、元気一杯のふりで広場を後にした。
グランドキャニオンの渓谷内で出会うハイカーたちの間には、一種の連帯感のようなものがある。特に谷底では顕著である。グランドキャニオンを訪問する観光客のうち、渓谷内に足を踏み入れるのは僅か1%程度。谷底まで降りてくる者は、更にその内の一握りである。ファントムランチにいるハイカーたちの間には、達成感や優越感を共有する仲間意識が存在するのだろう。彼らから受けた声援は疲労した体に吸収され、エネルギーとなる。サウスリムまで、残すところ距離にして16km、標高差1,400m。
グランドキャニオンの南側と北側はコロラド川に架けられた2本の橋で結ばれている。1928年に架けられたブラックブリッジ。そして、もう一本は、その40年ほど後に700mほど下流に架けられたシルバーブリッジ。ブラックブリッジは、カイバブトレイル・ブリッジとも呼ばれ、早朝の下りの際に渡ったのがこの橋である。長い間、グランドキャニオン内でコロラド川を渡る唯一の手段であった。
1960年代に作られたシルバーブリッジは、ブライトエンジェル・トレイルに繋がっており、その下をトランスキャニオン・ウォーター・パイプラインという水道管が通っている。この、パイプラインと言うのが凄い物である。ノースリムの水源から始まり、ノースカイバブ・トレイルを下り、コロラド川を越えて、ブライトエンジェル・トレイルを通ってサウルリムまで続いている。
一旦、1800m下りた水は、サウスリムに到達するのに1400m上る。凄まじい高圧である。それと言うのもサウスリムには殆ど水源がない。よって多くの観光客が利用する水を賄うためには、どこからか運んでこなければならない。
実は昨年、谷底でキャンプをした際に、夕刻のレンジャー・トークでコロラド川の水政策の話を聞く機会があった。それによると、コロラド川の水は1922年に定められたコロラドリバー・コンパクトという取り決めにより、周辺の7州(コロラド、ニューメキシコ、ユタ、ワイオミング、ネバダ、アリゾナ、カリフォルニア。後にメキシコが追加された)のみに利用が限定されているという。
グランドキャニオンは国立公園であり連邦管轄下であるため、これらの州には属さない。よってコロラド川の水は利用できない。従って他の水源から水を運んでくる必要があるとの事。そのために手間を掛けて谷越えで水を取り寄せる事となったらしい。
水道管が通るシルバーブリッジを超え南岸へと渡ると、2㎞ほど川沿いの平らな道が続く。そこから先は平坦な道はない。急勾配の上りでスピードは出ない。途中で日が沈むのは間違いない。ブライトエンジェル・トレイルは過去に4回ほど通っており、今回が5回目。暗がりでも道に迷う事はないだろう。水分、栄養分補給を欠かさず、怪我をしないようにパワーハイクあるのみ。
ファントムランチからゴールであるブライトエンジェル・トレイルヘッドまでは、6時間を見込んでいる。谷底を後にした時のタイムが12時間30分。疲労で単純な計算にも時間が掛かる。午前4時30分にスタートしたので、午後5時。プラス6時間。ゴール到着は午後11時頃になるだろう。日没は8時少し前。暗闇の中を3時間程度歩く事になる。ここまで誰ともすれ違っていない。おそらくこの先もほとんどハイカーとは会わないだろう。夜の山道を一人で歩くのはやはり不安だ。休憩は取らず、明るいうちに少しでも距離を稼ごう。
幾度となく通っているトレイルであるが、その都度異なった顔を見せる。夕刻の上りは今回が初めてになる。人影は全く無く、恐ろしいほどの静寂に包まれている。独りでいるのは苦にならない。どちらかと言うと好きな方であるが、夕闇が迫る中、これほどの孤独を楽しめるほど腹は据わっていない。
おそらく渓谷内の周囲何十キロに自分以外の人間は存在しないだろう。当然、携帯電話の電波も届かない。「誰か来ないかなぁ」と、弱気な自分が顔を覗かせる。
ブライトエンジェル・トレイル、そしてグランドキャニオンの南岸を縦に走る112kmからなるトント・トレイル。この二つのトレイルが交わる所にインディアンガーデンはある。まだ明るいうちに、何とかここまで辿り着くことが出来た。
ガーミンは14時間半を示している。午後7時という事になる。予定より30分程度早いペースだ。この辺り、日中はサウスリムから降りてくる日帰りハイカーも多い。キャンプサイトもあるのだが、何故か人影はない。山の夜は早いが、午後7時はさすがに眠るには早すぎる。何故、誰もいないのだろうか?
ボトルに水を補給し、誰もいないインディアンガーデンを後にしたのは日没の約30分前。ここからが最後の正念場となる。太腿やふくらはぎが張ってきている。攣らない様に時折、立ち止まって筋肉を伸ばす。疲労は極限に達しつつある。残すところ2~3時間という安堵感と、夢に見たR2R2Rがあと少しで終わってしまう寂しさが入り混じる、不思議な感覚に襲われていた。
疲労は脳が感じるもの
そのシグナルを操ることがチャレンジャーの大事な素質
疲労というのは、肉体よりも脳で感じるものだという事は、今までのチャレンジで良く分かっている。十数時間も動き続けていれば、疲労は時間を追うごとに増してくるのは当然である。一方で、ハイカーに励まされたり、素晴らしい景色を見る事により、疲労感は一時的にではあるが、劇的に緩和される。体が疲れてくると、脳が「もう動くな」とシグナルを送る。トレーニングを積むことにより、筋力を鍛えると共に、このシグナルを誤魔化す術を身につけることが出来る。
振り向くと、そこには数億年の年月を経て創られた、グランドキャニオンの堂々たる姿があった。幾度となくこの偉大なる景色を見てきたが、飽きることはない。すぐに夜のとばりが下り、谷は闇に包まれる。今回はこれで見納めだ。トレッキングポールを岩に立てかけ、名残惜しい気分で暫し遥か彼方のノースリムを眺めた。
ヘッドランプのスイッチを点ける。まだ明かりがなくても何とか歩けるが、それもほんの数分の事だろう。渓谷内の闇は深い。これから訪れる漆黒の闇。孤独な闇に不安がないと言えば嘘になる。今回は最大光力500ルーメンの心強い見方がある。多少なりとも不安を和らげる手助けになるだろう。
闇は静かに、そして容赦なく訪れた。一歩、もう一歩と足を前に進めてさえいれば、いつかは必ずゴールに着く。暗闇から妙な鳴き声が聞こえる。時折、目玉のように光るものが見える……。
サウスリムにあるロッジの明かりが見えてきた。残すところ、1㎞程度だろう。あとわずかで、今回のチャレンジも終わる。思い返せば長い一日だった。何度見ても感動に値する景色を充分堪能した。多くの人に励まされた。始める前には大きな不安もあった。闇の中ではマウンテンライオンの恐怖もあったが、無事ここまできた。ロッジの光が大きくなってくる。リムに誰かいるようだ。人の声が聞こえてくる……。
最後の緩い傾斜を上りきると、平坦なトレイルヘッドに出た。遂に念願のR2R2Rを完走した。しかし、そこにメダルはない。人々の歓声もなければ、祝福の言葉もない。あるのは極限に達した疲労と安堵感。そして、それらを遥かに上回る達成感。
左腕のガーミンに目をやる。タイムは17時間21分を表示している。「いま何時だ?」疲労で思考能力が更に落ちている。指を使って計算し、ようやく午後9時51分であると分かった。ここからマスウィックロッジ前に停めた車まで、数百メートル歩くのみ。喜びと、満足感に浸りながらの数分間のビクトリーランならぬ、ビクトリーウォーク。
十数時間前にロッジ前に停めた車が見えてきた。「車の鍵どこに入れたっけ?」思い出せない……長い夜になりそうだ。
ワンポイント・アドバイス
ルート選び
リム・テゥー・リム(R2R)と呼ばれる、グランドキャニオン横断(片道)の場合のルートは、サウスリム発、ノースリム発、それぞれ一長一短があり、意見が分かれるところ。個人的にはサウスリム発をお勧めしますが、急勾配の下りが苦手な方や、炎天下の長い上りは避けたいという方など、好き嫌いの要素が強く、一概にどちらが良いとは言い難いのも事実です。
その一方で、リム・テゥー・リム・テゥー・リム(R2R2R)と呼ばれる往復の場合は、ほとんどのランナーがサウスリム発を選びます。最短距離は、サウスカイバブを下りノースカイバブを往復し(北側はこれが唯一のルート)、改めてサウスカイバブを上るルートで全長約67km。
景色では他を圧倒するサウスカイバブではありますが、勾配がかなり急な上に、水補給場所がないという難点があります。さらにブライトエンジェルと比べ100mほど標高が高いため、上りには適していないというのが私の考え。また、サウスカイバブ・トレイルヘッドからビレッジ方面に戻るシャトルバスは日没の後、30分を以って運行が終わるので要注意。
今回私が選んだのは、敢えて5kmほど距離が長くなるサウスカイバブ⇒ノースカイバブ⇒ブライトエンジェルのルート。ブライトエンジェルは、サウスカイバブ対比で距離は長いものの、標高差は1400mと100mほど少なく、必然的に上り勾配は緩やかになります。さらに途中に水場が3箇所あるのも心強い味方。
また、今回はハイカーとは遭遇しませんでしたが、トレイルの整備状態が良く、最も多くのハイカーが利用するのがこのトレイル。という事で、私のR2R2Rのお勧めルートは、サウスリムから始め、サウスカイバブ⇒ノースカイバブ⇒ブライトエンジェル。最終ゴールであるブライトエンジェル・トレイルヘッドは、極めてアクセスが良く、多くのロッジは徒歩圏内というも大きな魅力。
■プロフィール
出口学 (also know as Nick Deguchi)
1965 年東京生まれ、カリフォルニア州ロサンゼルス在住。20 代前半に日本を離れ、南米コロンビア、エクアドル、メキシコでの十数年にわたる中南米での生活を経て2007年からロサンゼルス。現在は日系企業勤務の傍ら、日々新しい挑戦を探す毎日。アイアンマン・アリゾナ、米国本土最高峰ウィットニー山、ヨセミテ・ハーフドーム、ブラックマウンテン100kmウルトラマラソン、スカイダイビング、グランドキャニオン横断トレイルランなど。
【アイアンマン参戦の様子などもアップしてあるブログはこちら】
http://nick-d.blog.jp/
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