Special Interview
先達トライアスリートに学ぶ、人生設計
「すごい会議」代表 大橋禅太郎さん編〈前編〉なぜチャレンジする人生は面白いのか?
Interviewer 山口一真(MAKES/100年コーチ)
1990年代にアメリカのシリコンバレーで起業し、様々な危機と成功を経験した大橋禅太郎さん。各国のアイアンマンに出場するトライアスリートでもある。
今回はその大橋さんに波瀾万丈の起業家人生とトライアスロンの楽しみ方について話を訊いた。
行動のスピード、ストレートなコミュニケーション、様々なものに興味をもち、自分の価値観で楽しむ姿勢など、大橋さんの話には人生を豊かに生きるためのヒントがあふれていた。
1964年宮城県生まれ、静岡県焼津育ち。東京理科大学卒。石油探査会社シュルンベルジェのエンジニアを経て26歳のとき日本で起業。数年後アメリカへ渡り、半導体ブローカー勤務を経て、WEBサイト向けユーザー獲得支援サービスの会社を立ち上げる。この事業を基にベンチャーキャピタルから10億円以上の資金を調達し、社名を「ガズーバ」に変更してユーザー獲得エンジンの事業を開始。2001年同社を売却。ガズーバ時代にマネージメントコーチのハワード・ゴールドマンから伝授された経営ミーティングの手法を日本企業に伝える活動をスタート。現在、一般社団法人「すごい会議」の代表として、日本人コーチの指導に当たっている。
2013年、日本人コーチ全員とトライアスロン挑戦を開始。妻の由紀子さんも巻き込み、アイアンマンにも出場している。カリフォルニア州在住。去年買ったサンフランシスコ近郊の新居に25mプールを造って泳ぎ、週末は夫婦でトレイルランやバイクライドを楽しむ。趣味はほかにジャズピアノ、クラシックピアノ、ハープシコード、装置・部品の開発、小型飛行機の操縦など。
Interviewer
山口一真 Kazumasa Yamaguchi
(株)メイクス取締役/100年コーチ
1982年東京生まれ。小学校から大学までバスケットボールに打ち込む。社会人になってスポーツから遠ざかり、一時期体重が100kgを超えたが、選手時代のノウハウを活かした食事と運動により1年間で40kgの減量に成功。2018年メイクスのKONAチャレ担当になったのを期にスイム・バイク・ランのトレーニングを始め、木更津トライアスロンでレースデビュー。秋にはアイアンマン台湾を完走した。以後も毎年アイアンマンや宮古島などに出場を続けている。また、世界のレジェンド稲田さんとの対談をきっかけに、自身もKONA挑戦を表明、チャレンジの模様は下記ブログやインスタグラムでチェックを。
「100年コーチ。」山口一真のブログ>>https://ameblo.jp/makes100coach
Instagram>>https://www.instagram.com/makes100coach/
ジェットコースターのような起業家人生
「言葉遊び」の面白さ
山口 メイクスには「心と体の健康寿命100年に貢献する」というコンセプトがあって、人生で輝いているトライアスリートに、人生を豊かにするためのヒントを聞くという対談を今年の春から始めました。第1回が稲田さん(88歳のアイアンマン世界選手権・最高齢完走記録をもつ稲田弘さん)で、今回が第2回です。
大橋 相変わらず声がデカくていいですね(笑)。稲田さんの次というのは光栄です。
山口 メイクスは長いあいだ「すごい会議」のコーチにサポートしていただいていますが、禅太郎さんとは宮古島のトライアスロン合宿などでご一緒し、色んなお話を聞かせていただいています。
僕が印象に残っているのは宮古島の東平安名崎で休憩しているとき、僕が飲み物・食べ物をまったくとらないのを見た禅太郎さんに「お金ないなら貸しますよ」と声をかけられたことです。僕は欲しくなかっただけなので、お金がないわけじゃなかったんですが、「給食費払えない小学生みたいだったら、かわいそうだったと思ったので」って言われた(笑)。
そういうコミュニケーションのとり方ってあまり経験したことなかったので、どうやって出てくるものなのかなと、興味をもちました。
大橋 人と話すのが好きなんですよ。サンタローザのアイアンマンに出たとき、ランのコースで日本人が応援していて、「がんばれ」と声をかけられたんですが、「がんばれ」っていうのは苦手なので、止まって「やめてくれ」って言ったんです。「じゃあ、なんて言ったらいいんですか?」って言うから、「『かっこいい!』か『抱いて!』かどっちかですね」って(笑)。人と会話したいというのがあるかもしれない。
山口 言葉遊びのような感じなのかな。
大橋 そう。言葉遊びが好き。アイアンマンに行くと、いろんな面白い言葉がコース上に書いてある。「こんなもの読んでないで走れ!」とかね(笑)。
山口 そういうのって楽しいですよね。
中学時代から「アメリカに行く」と決めていた
山口 資料によると、禅太郎さんは1982年にミドルタウンハイスクールNYに入学とありますが、アメリカで生まれ育ったんですか?
大橋 いや、静岡の焼津育ちです。なんとなく海外に憧れがあって、ずっと留学したいと思っていて、高校のとき留学プログラムを使って1年間行けることになった。
山口 どんな憧れだったんですか?
大橋 中学くらいからなんとなく憧れていて、旅行代理店の前に並んでる色んな外国のパンフレットを持ってきて、エロ本みたいに眺めていましたね(笑)。
部屋の壁には「アメリカに行く」って書いて貼っていた。留学から帰ってきたとき、字が薄れてたから、かなり前に書いてたんです。
新卒入社した外資系銀行に
2週間で辞表を提出
山口 大学は日本で理科系の大学に進んで、卒業してアメリカの金融機関に就職したんですね?
大橋 チェースマンハッタンです。でも、2週間で辞表を出した。実際に辞めたのは2カ月後ですが。
山口 そんなに早く辞めたのはなぜですか?
大橋 当時金融機関が銀行と証券両方やれることになって、証券に入るつもりで受けたら銀行に回されたんです。しかも外為管理という部署で、仕事に興味がもてなかったし、向いてないと感じた。
山口 次に入ったシュルンベルジェというのはどんな会社ですか?
大橋 フランス発祥の石油探査会社です。
山口 なぜ証券に行かなかったんですか?
大橋 なんでもよかったんです。外資系企業の社長宛に「年収500万希望」と書いて履歴書を送ったら、人事部長から電話が来て、「どういう意味かわかってるのか?」って言われて、「わかってる」と答えると、「一度会いに来い」みたいな感じで、何社か行ったんです。
マッキンゼーは最終面接で落ちて、もらった手紙に「今期一番面白かったけど、うちが欲しい人間ではない」と書かれていた。とある外資の通信会社からは「500万でいいよ」と言われました。ルール上初年度は月給24万で、そこから昇給させてあげると。
山口 当時大卒の初任給が10万代の時代ですから、年収500万は相当ですよね。シュルンベルジェを選んだのはなぜですか?
大橋 シュルンベルジェは現場採用だと初年度で1000万くらいもらえるんです。大学のときサマーインターンに参加して、僕に合うと思ったんでそこに行くつもりだったんですが、ちょうど卒業する頃、石油の価格が急落しだして、「採れない」と言われて行けなかったんです。ところが会社辞めようと思って『デューダ』を見たら再募集していた。連絡したら、僕のことを気に入ってくれていたんで、「いつから仕事始められる?」みたいな感じで転職できた。
スカイダイビングがやりたくて
インターンシップに参加
山口 大学時代、シュルンベルジェのサマーインターンに参加した理由は何だったんですか?
大橋 2年の夏休みにアメリカでスカイダイビングがやりたいと思って(笑)、100万くらいかかるんですが、そんなお金はない。
たまたま学部の掲示板にシュルンベルジェがサマーインターンを4名募集していて、合格すると20万の現金と交通費やむこうでの宿代やら何やらがパッケージで支給されて、世界百何十カ所ある拠点の好きなところに行けるという。
応募したら面接やら論文やらうまく行って、大学3年の夏休みに1カ月、テキサス州オースチンの研究所にいました。
山口 もともとそのサマーインターンでシュルンベルジェが気に入って、会社も気に入ってくれて、本来は就職先の第一候補だったところに、紆余曲折あったけど、結局就職できたわけですね。シュルンベルジェには何年いたんですか?
大橋 4年いました。研究開発に2年、インドネシアの現場に2年。
山口 4年というのは禅太郎さんにとって長かった?
大橋 ずっと起業したいというのがあったんで、そのタイミングを探してたんですよね。現場に行くと手取りで1000万もらえて、2年で1000万貯まったんで、26歳だったかな、「このタイミングだよな」みたいな感じで、辞めて起業した。
海外のスパイに技術情報を売る
山口 起業してどんなビジネスを始めたんですか?
大橋 大久保に小さい会社を作って、日本の技術情報を海外に売る下請けをやってました。各国の大使館にはアタッシェという一種のスパイがいて、政治とか軍事とか産業とか、各分野の情報をとってくる仕事をしてるんです。そのうちの産業アタッシェに技術情報を売りに行く。証拠が残らないようにすべて口頭で伝え、支払いは現金でした。
山口 スパイというと危険なイメージですが。
大橋 ドンパチやるようなスパイじゃなくて、みんな普通に企業の依頼受けてやってるんです。日本も彼らがスパイ目的で来てるのわかっていて、大使館にどういう人が出入りしてるか見てる。飯倉の会員制の施設にスパイの溜まり場のバーがあって、そこで、みんな笑顔で挨拶しながら飲んでますよ(笑)。
山口 ギャグみたいな世界ですね。どうしてそんなことを始めたんですか?
大橋 もうかるだろうと思ったんです。技術的なことは大体わかるし、日本語でも英語でも大体話せるし。在外公館のリスト見て、手紙出して会いにいくんですけど、初めて営業行ったときは怖いから、外でリポビタンD飲んで、大使館の脇のゴミ箱に空瓶投げ捨てて、「よっしいくぞー」みたいな感じで乗り込んでいった(笑)。
事業の不振を救った偶然の出会い
山口 そのビジネスはうまくいったんですか?
大橋 下請けなんで、思ったほど儲からなかった。西新宿の高層ビル群を見て、最初は「4〜5年であれくらいのビル建つな」と思ってたけど、建つ気がしない(笑)。
1年くらいやってたけど、お金はどんどんなくなっていくし、どうしようってことになって、セミナー企画して、アメリカに営業かけたんです。そのセミナーにふたりしか来なくて、そのひとりの台湾人はセミナーのあいだずっと寝てるんです(笑)。
終わって起こしたら、「飯食いにいくか?」って言うんです。ヒマだから行ったら、飯食いながら「儲かってないだろ?」って言われて、「儲かってないです」って言うと、「今からおれのオフィスに来い」って言うので行ったんです。
その人もゼロから起業した人で、アメリカで売上げ当時500億円くらいのコンピュータと関連部品を扱う会社を経営していた。その人が「IBM互換のDOS-Vマシン(パソコン)を日本で売れ」って言うんです。
「流通興味ないんで」って言ったら、「いいから3台買え。売れたらまた5台買え。これは黄金のオポチュニティだ」って言う(笑)。結局のせられて3台買ったら、それが一台100万円近くで売れたんですよ。当時、IBM互換機の値段は日本とアメリカですごく差があったんで、その月から会社が黒字になった。
山口 メインビジネスがIBM互換機の輸入販売になったわけですね。全体でどのくらい売れたんですか?
大橋 月20台とかそのくらいですから、年1億数千万。ただ利益率はめちゃくちゃ高かった。でもすぐにいろんなところが市場に入ってきて、競争が激しくなり、日本のPCもそれまでNECのPC98だけだったのが、ほかにも出てきて安い値段で買えるようになり、毎月利益率も下がっていって、1年ちょっとで終わった。
渡米して半導体のブローカーから
インターネットビジネスへ
山口 メインビジネスの終焉、早いですね。
大橋 アメリカに行きたかったんで、会社終わりにして、観光ビザでハワイに行って、「何しようかな」みたいな。1000万くらいでできるビジネスを探したけど、なかなか見つからなかった。
山口 何も決めずにアメリカへ行ったんですか?
大橋 そのときちょうどニュージャージーで半導体のブローカーをやってた方を紹介してもらって、グリーンカード取得に3〜4年かかるのを、その人に「俺、それサポートするから、2〜3年うちで働け」みたいなことを言われ、「わかりました」って言って。
山口 ブローカーになったわけですね。
大橋 半導体のブローカーやってたところにインターネットが出きたんです。ネットスケープ(※インターネット普及の初期に一世を風靡したブラウザ)とかね。それを社長に見せたら、「やろう」ってことになり、休眠状態だった子会社を僕に任せてくれて、インターネット関連事業をスタートさせた。
ところがそのうちD-RAM(※半導体メモリの一種)が大量に市場に出回るようになって、ブローカーの存在価値が下がって半導体ビジネスに余裕がなくなり、社長に呼ばれて「禅ちゃん、サーバあげるから独立しない?」って言われた。
ヒマな数か月から生まれた
新しいインターネットサービス
山口 体のいいクビですね。
大橋 そう。ちょうど娘が生まれたばかりで、「これからどうする?」みたいなことになった。
そのとき小池さんていう電通国際情報サービスのニューヨーク支店長が、僕が会社辞めたって聞いて、「会おうよ」って言ってくれて、会ったら「うちでいつから働ける?」って訊くんです(笑)。
で、「しばらくお世話になります」っていうことになり、シリコンバレーのオフィスに小さな間借りオフィスを作った。
山口 そこからどんなビジネスを始めたんですか?
大橋 その頃ICQっていう小さいチャットのソフトがマイクロソフトに350億で買われたんです。当時仕事なかったんで、「あいつら僕らより特に頭いいわけじゃない。で、俺らはここで何してんの?」 って、仲間と3〜4カ月その話ばっかりしてた。
「なんでICQが成功したのか?」「その主たる機能は何か?」って考えていくと、まずチャットのソフトだからお互いにそのソフトがないと会話できない。ICQの画面には友達にICQを勧めるボタンがあるんです。友達を巻き込むことが基本ファンクションになっている。それがICQを成長させる。それならそういう機能をベースにしたソフトを作ればいい。
当時、ネット関連の企業が買収されるとき、1ユーザーあたり20ドルの値がついたんです。それがユーザー獲得のコストとされていて、つまり1万人なら2000万円、10万人なら2億円です。だったら1ユーザーあたりの獲得コストを$20より低くできれば買収されて儲かる。それで、ソフトのアイディアにこのモデルをくっつけて「あー、見えた。もう詰んだね」って言って、作ったのがガズーバの前身になるマイルネットって会社です。
成功と思ったら一転危機
山口 そのマイルネットはどんなビジネスだったんですか?
大橋 ユーザー獲得をサポートする会社です。そこが、作って1カ月経たないうちにエキサイト(検索サイト)に呼ばれて、行ったらメインのファウンダーとか副社長とか4〜5人いて、「今日の議題は敵対・買収・協調の3つあるんだけど、どれにする?」って言うんです(笑)。
「じゃあ買収の話しましょう」と答えたら、数日後に7億5000万で買収提案が来て、気持ちとしては売りたくなかったけど、「でも、これでセスナ買えるぞ」とか考えた(笑)。ところがこのディール(交渉)やってるうちに、エキサイトがアットホームって会社に買われちゃったんですよ。それで、アットホームから「うちはいらない」って言われた。当時、お金もなかったから、ベンチャーキャピタルにお金出してもらうように色々働きかけて、ガズーバを立ち上げたんです。
山口 すごい話ですね。
大橋 話すと簡単だけど、子どもが2〜3歳で、お金ないし、苦しかったですよ。家庭があって生活費出せない恐怖が常にあった。そのときヤフー!の株1万ドル分持ってたんで、半分売ったらあと5000ドル分しかなくて、「1カ月しかもたない」と思ってたら、翌月その残りが倍になったんです(笑)。それで「なんとかまた1カ月もつな」とか、そんな感じでした。
強いられた企業売却と
「すごい会議」の始まり
山口 ガズーバ立ち上げは何年ですか?
大橋 1997年かな? ユーザーを集める会社から、ユーザーを集めるエンジンを作る会社に変えた。
山口 ガズーバを売却して「すごい会議」(の日本への伝承)を始めたのが2001年ですよね。これはどういうきっかけがあったんですか?
大橋 その頃エクイティ(株式資本)とかマーケット全体が厳しくなってきて、ベンチャーキャピタルの投資家がガズーバを別の会社に売ることにしたんです。
そのとき僕に突きつけられた条件は、「独立したとき競合会社を作らないこと」だった。「その代わりにこれくらい余計にお金と株渡します」みたいな感じで。
そうすると契約上シリコンバレーで3年IT企業やれないんです。プログラマーとして働くのはいいんですけど、それもどうかなと。
山口 そこから「すごい会議」にどう結びついたんですか?
大橋 当時シリコンバレーでビジネス起こした日本人がいなかったので、日本人の経営者を集めたセミナーに呼ばれて、アウトソーシングとベンチャーキャピタルの仕組みと、今で言う「すごい会議」の話をしたんです。
そのとき出席者の経営者のうち数人が、「あなた、それやれば?」って言ってくれた。「買います?」って訊いたら、「買います」って言う。ありがたかったですよ。
山口 「すごい会議」は前から知っていたんですか?
大橋 ガズーバやりながら、投資家に無理矢理言われてコーチング受けてたんだけど、最初は自分で信じてなかったんです。人から何か言われてパフォーマンス上がるなんてあり得ないし。
でも、ある日「今日どんなこと起きたら価値ある?」と訊かれて、「こんなこと起きたら」って答えたとき、「面白い」と思ったんです。
それからメモったことを自分のオフィスでそのまま使ったらうまくいったんで、「これはすごいな」と思った。
達人のコーチングを
「型」に落とし込んで成功
山口 日本人の経営者たちと出会って、今度は禅太郎さんがその人たちにコーチングすることになったわけですね。
大橋 日本でセミナーやって十何枚か名刺がたまったんで、ハワード・ゴールドマン(※アメリカの経営コンサルタント、マネジメントコーチ、著述家。アップルコンピュータ、モルガン・スタンレー、ウォルト・ディズニー、NECなど多くのクライアントをもつ)にメール送って「日本でやりたいんだけど」って言ったら、ハワードが「一億よこせ」って言うんです。僕は「あ、いいよ。分割ね」って。実際は長い間にそれ以上払ってますけど、そのときハワードは「お前本気か? 中途半端な気持ちならやらないほうがいいよ」って言いたかったんです。
山口 「すごい会議」が日本でやってることはハワードさんが作ったものなんですか?
大橋 ハワードが作ったフォーマットの一部です。僕の価値は何かっていうと、型に落としたことなんですよ。彼は単に空手がうまい人なんです。「こういうときこう打つんだ」と教えられるけど、本人も型がどうなってるかというのはよくわかってなくて。
山口 ハワードさんはコンサルタントなんですね。禅太郎さんはそれを言語化して型に落とした。
大橋 そうです。そのまましゃべれるようにした。
山口 今禅太郎さんが指導している「すごい会議」のコーチは30人くらいですか?
大橋 25人です。一度サービスを小さくしたんです。今また大きくなる圧力が強いんですが、僕と(理事の)川井と雨宮がこれでいいって確信もってる人間以外は基本的に難しいってことで、しばらくは人数このぐらいでやろうと(笑)。時々間違って入っちゃう方がまれにいるぐらいです。
根回しでなく解決にフォーカスできる
コミュニケーションの価値
山口 「すごい会議」を日本に持ち込んで、禅太郎さんの中で最もうまくいってることって何ですか?
大橋 気のいいっていうか、話してて楽しいコーチたちと仕事できてるっていうのが一番大きいんじゃないですかね。
常に経営者として問題解決しなきゃいけないことが出てくるんですが、基本的に根回しでなく、解決にフォーカスして解決できる状況、原則ベースで仕事できるっていうのが大きいですね。
あと、僕の得意な問題解決とか、抽象コンセプトをそのままみんなに伝えたりできるってことですね。
山口 日本の社会でそういうコミュニケーションがとれるのって、当たり前じゃないですよね。
大橋 アメリカでもそうですよ。
山口 メイクスで「すごい会議」を導入して一番変わったのはセールスとマネジメントなんです。会議も当然よくなったんですけど、マネジメントでもセールスでもそれを体現するようになって、気持ちいいコミュニケーションがとれるようになった。会社を変える変化っていうのは、言葉とか意志決定とか人間関係とか全部変わりますね。
大橋 ジョンソン・エンド・ジョンソンの日本法人の社長が、2年後にニューヨークのエイボン本体で改革担当の副社長になったんです。それで世界各国のヘッド集めてセッションやることになったんで、お前来いって言うんです。
「おれ英語母国語じゃないし、日本語でやっても何言ってるかわからないって言われるのにどうすんの?」と思ったけど、行ったらやっぱり、「すごい」って話になった。国より人間の性(サガ)のほうが大きいのかな。
相手にフォーカスした
コミュニケーションの大切さ
山口 その方は日本で禅太郎さんのお客さんだったんですか?
大橋 彼はアメリカでコーチング受けてたんで、日本に来たとき「おれのコーチ探せ」って言って、人事がいろんなところに当たったんですけど、僕はそういうの知らないで社長宛に手紙送ったんです。
最初人事が出てきたんで、「最初から社長に会わせて」みたいなこと言って、彼に会ったら僕が採用された。
彼が言うには「おれの意図にフォーカスしてたのはお前だけだった」と。ほかは「我が社の方法論」とか「こういうコンサルタントがいます」とか「我が社のプロセス」とか過去事例とか出してきて、「ヒアリングやりましょう」みたいなことを言ったんでしょうけど。
山口 他社はその方の意図にフォーカスしてなかった。禅太郎さんはフォーカスしていたんですね。僕たちはお客様に最初にお会いしたときに、「なぜ今日ここに来たんですか?」と訊くんです。
もちろん不動産を買いに来てるんですけど、不動産は手段なので、「その手段で達成したい目的って何ですか?」といったことを訊いていく。話していただいているうちに、本人でも気づいていないことや明確化されていないことが出てくる。そこで「不動産買う前にまず目的を明確にしませんか?」というところから商談をスタートするんです。
大橋 セールスって、相手と敵になってることが多いですけど、会話の中でワンチームになれるかどうかですよね。
山口 「すごい会議」のコーチたちがそういうコミュニケーションをとってくれるから、僕たちはそれをセールスに落とし込んでいけるわけです。