前回のコラム>>【本格的にトライアスロンの道へ】#004
シドニーオリンピック出場への分岐点
シドニーオリンピック代表になるまでの分岐点となったレースや出来事などを、もう少し振り返ってみたいと思います。
当時は2000年ミレニアムのオリンピックで、トライアスロンがシドニーオリンピックから初採用され、開会式翌日の第一競技だったということや、女子代表3人全員が既婚者だったということもあり、国内でも大変注目されました。
初のワールドカップ出場は1999年4月の石垣島大会。エントリーは80人を超え、私のレースナンバーは86。今時ではあまり見ない数字です。スタートのポンツーンに一列で並びきれず2列でスタートました。キャパをオーバーしたポンツーンの上でスタートを待つ間、前後に大きく揺れていたことを思い出します。
結果は総合38位。スイムラップ48位、バイク44位、ラン22位。思い描いた展開からは程遠く、最初から最後まで訳の分からないまま、あまりの迫力とスピードに圧倒されて、全く手ごたえがありませんでした。現実を知ったと表現すればよいでしょうか。
ゴール後、オリンピックの代表になる為ためにこれからやらなければならないであろうことを思うと、途方もない道のりに感じました。レースが終わった夜、ある出来事がありました。宿泊していたオフィシャルホテルの廊下で、関係者にある言葉をかけられました。「初レースはどうでしたか? トライアスロンをそんなに簡単に思われたら困るからね」と。
その言葉で、私の中で消えかけていた火がまたつきました。「悔しい、絶対に負けたくない!やり遂げる」翌週にワールドカップ第2戦蒲郡大会(愛知県)を控えていました。こんなふうに落ち込んでいる時間がもったいないように感じました。そのときは悔しい気持ちがいっぱいでしたが、その言葉で気持ちを切り替えることができたので、今ではとても感謝しています。
絶対に同じ失敗は繰り返さない
蒲郡大会は今でもよく覚えています。朝から小雨が降りしきり気温16度、水温15度。公式によると観客数2万1千人。愛知県蒲郡市にある競艇場周辺特設コースで行われました。あまりに寒過ぎてバイク時にゴム手袋をつけてレースする選手もいました。私もランのときに寒さで手足の感覚がなくなり、シューズのカカト部分がきちんとはけているのか、つっかけたまま走っているのではないかと、分かりませんでした。
結果は総合22位。スイムとバイクのスプリットタイムは先週とあまり変わりませんでしたが、ランラップが7位で34分25秒で走りました。コースは違いますが、1週間前の石垣島大会では41位分36秒だったので、約7分も短縮しました。ここで自信がつきました。
その自信のまま2週間後のワールドカップ第3戦シドニー大会へ出場しました。そのレースでは最後のランで追い上げ総合11位(日本人トップ)になりました。レース後に受けた取材で「あなた今大会でダメだったら、オリンピック代表に向けてかなり厳しいと思っていたんです」と言われました。ひとつの分岐点だったと感じます。
その当時、何を思いレースをしていたか。とにかく絶対に同じ失敗はしない。それだけは心に決めてレースに出場していました。現実的にも同じ失敗を繰り返す時間はありませんでした。国内レースであろうと国際レースであろうと、レベルが高くても低くても、全力でレースする。力を出し切る。一戦一戦がオリンピックに直結していたので真剣勝負でした。
レース前に必ず前回のレースを振り返り、次のレースで克服すべき課題を決め臨む。総合成績が目標に届かなくても、ポイントが取れなくても、絶対に力を抜かない、諦めない。決めたレースのテーマだけはやり遂げる。その連続が結果的にシドニーオリンピックに繋がっていったと感じます。
この流れをシーズン後半も維持し、7月のアジア選手権で優勝。トライアスロンを初めて1年弱でアジアチャンピオンになりました。9月の世界選手権モントリオール大会(カナダ)では初出場で日本人過去最高位の13位になりました。
飯島健二郎監督の作戦と狙いはことごとく当たり、奇跡の快進撃が続きました。なぜあそこまで集中できたのか? それは若さゆえの怖いもの知らずもあるでしょう(笑)。当時はレースプランも作戦も一切なし。世界ランキングを見てもスタートリストを見ても、大雑把に言えば、誰が何が得意で、どんな特徴をもっているのかも分からない。
スタートしたら全力でとにかく前の選手について行き、流れに乗る。ただそれだけ。至極シンプルです。レース中に余計なことを考えないので迷いがなく力を発揮しやすかったのかも知れません。今人生を振り返っても、あれだけひとつの物事に集中し、力を注いだことはもうありません。
99年を飛躍の年で締めくくり、コーチ・トレーナ―・メカニック・トレーニングパートナーの方々と共に、私を支えてくださっていた素晴らしいチーム力で、大きな故障もトラブルもなく順調に躍進しているように感じていました。
2000年オリンピックイヤーとなりました。4月の開幕戦ワールドカップ石垣島大会は、ランに入りイギリスの選手とサイドバイサイドで追い上げ、最後に競り勝ち3位になり、初めてワールドカップの表彰台に乗りました。
2位にはスイムから先頭集団に入り終始安定した走りでレースを展開した細谷はるな選手(ニデック)が入りました。日本チームにとって快挙で、私自身にとっても素晴らしいスタートを切りました。ここまではすべてが順調に見えました。
しかし、なんとなく……そのときくらいから自分の中で、時折集中力の維持が難しいことを感じていました。そのときはそのことを、大きな問題としてとらえていませんでした。それよりもやるべきことがたくさんありましたし、5月の最終選考会に向けいよいよ大詰めに入っていました。
開幕戦で順調なスタートを切ったので、これから先も大きな失敗がなければ大丈夫だろうと思っていた矢先、アクシデントがありました。
石垣島大会の2週間後に、愛知県蒲郡市でアジアトライアスロン選手権が行われました。大陸別選考会に指定されており、このレースで優勝すれば地域代表枠で内定が約束されていました。出場日本人選手全員が最終の世界選手権を待たずに、このレースで内定を勝ち取りたいと思っていました。
結果は総合5位。得意のウエットスーツ着用だったにもかかわらず、スイムで主要メンバーから遅れてしまい単独泳になり、焦りからトランジションでウェエットスーツが脱げず、最後は破って脱ぎましたが、最後までその遅れを取り戻すことができませんでした。表彰台は日本人選手が独占し、優勝は石垣島大会に続き好調を維持した細谷選手でした。
2000年国別ランキング3位
少し話が横に逸れますが、当時(2000年4月)の国別世界ランキングを見ると、男女ともオーストラリアが1位。女子は2位がアメリカ。3位はなんと日本! 世界ランキング50位以内に日本人女子が5人も入っていました。
男子は2位がニュージーランドで3位がチェコ。日本は12位でした。私がトライアスロンへ転向する以前の1996年前後は、女子のレースは、たとえスイムで先頭から3分近く遅れても、バイクとランで追い上げ最終的にすべてひっくり返して優勝するような、泳げるランナーが全盛期でした。
1998年前後からナショナルレベルのスイマーからトライアスロンへ転向してくる選手が現れ、スイムから単独または少人数で飛び出し、バイクも独走してその差を広げ、ランで逃げきる新しいスタイルが生まれました。泳げるランナーの時代から、走れるスイマーが世界のトップに名を連ねるようになりました。
そのような流れを経て、現在はオールラウンダーという感じでしょうか。3種目すべてに穴がなく、先行逃げ切りもできるし、混戦した場合ラン勝負になっても勝てる。現在、国際レースで解説をさせていただくことがありますが、トップ選手の戦力分析をしていて驚くことがあります。ランラップがその年の陸上の日本選手権でトップ10に入るようなタイムで走っている。しかもスイムも先頭集団で上がってくる。何てことだ!(笑)
少し前の話になります。シドニーオリンピックの競泳代表だった友人の男子選手に聞いた話です。アメリカで行ったナショナルチーム高地合宿で、カナダのトライアスロンナショナルチームと一緒になったことがあったそうです。
そのときのカナダチームの練習タイムが、自分たちと同じくらいのレベルで大変驚いたと話してくれました。トライアスリートの身体能力がいかに高いかを象徴するエピソードだと思います。歴史は繰り返されると言いますが、次はどのようなレーススタイルが主流となるのでしょうか。パリオリンピックも近いことですし、とても楽しみですね。
最終戦でしっかり決める
話を戻します。
蒲郡大会の翌週には最終選考レースの世界選手権がオーストラリアのパース(西オーストラリア州)がありました。今振り返ると相当タフな流れでした。オリンピック選考対象レースは石垣島大会(4月9日)アジア選手権(23日)世界選手権(30日)3週間の間に選考レースが3レースあったということになります。
世界選手権で日本人上位3位以内に入れば内定有力候補となりました。オーストラリアの4月と言えば、日本と季節が反対になりますので、季節は秋。冬に向かっているということになります。やはり寒かった記憶があります。スタートラインに向かうまで、コールされる直前まで、
バケツに張ったお湯に塩を入れて足湯を行い、身体を冷やさないようにました。結果は日本人過去最高位となる9位。スイムからバイクへ移り、トランジションを出てバイクシューズに足を乗せはこうとしたときに、何故かシューズを地面に落としてしまい、取りに戻るというアクシデントもありましたが、無事に最高の結果で代表を決めることができました。
レースが終わった夜に国際電話で両親に結果を伝えたとき、やり遂げた感動と充実感が半分、ホッとしたのが半分。陸上選手時代にお世話になったままで、恩が返せていなかった方々に御礼と、責任が果たせて良かったと安堵した記憶があります。オリンピックまで約4カ月でした。
>>次回へ続く。
※1カ月に1~2回不定期更新。
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>>#001 オリンピアン関根明子さん、コラム始めます!~徒然なるままに~
>>#002【水泳から陸上へ――高校受験が転機に】
>>#003【トライアスロンとの運命的な出会いのきっかけとなった人】
>>#004【本格的にトライアスロンの道へ】
九州国際大学附属高等学校女子部陸上競技部。ダイハツ工業株式会社 陸上部に所属。1998年トライアスロンへ転向し、10年間プロトライアスリートとして活動。2008年に引退後、現在は3人の子育てをしながら、トライアスロンやランニングのコーチとして活動中。2022年「プライベートサロン Ohana」を開業。1975年生まれ、福岡県北九州市出身。
《主な成績》
1998年 ソウル国際女子駅伝 日本代表、横浜国際女子駅伝 近畿代表
2000年 シドニーオリンピック トライアスロン日本代表
2004年 アテネオリンピック トライアスロン 日本代表
2006年 アジア競技大会 (ドーハ) 銅メダル