前回のコラム>>【理想の選手とコーチの関係性とは】#009
カナダ留学を終えて
2002年の夏頃、1年半のカナダ留学を終了し再び愛知県岡崎市で活動を再開しました。
引き続きトレーニングを継続していたものの、自分の感覚と実際が合っていないような気がしていました。何かしっくりこないような噛み合っていないような感覚でした。
そんな心身の状態のなか、フランスで行われたワールドカップ・ニース大会に出場しました。スイムを最下位でフィニッシュし、バイクで単独になりましたが、何とかひとつ前の集団に追いつき粘ったものの過去ワースト順位の総合40位でした。
その結果から、オフは拠点でしっかり腰を据えて、自分に合わせた計画を立て、じっくりトレーニングを行おうと決めました。そのような流れから、同じく愛知県で活動していた今枝誠さんにトレーニングパートナーをお願いすることにしました(前回コラム後半参照)。
ワールドカップ蒲郡で銅メダルを獲るためにしたこと
2003年のワールドカップ第4戦蒲郡大会で銅メダルを獲得するまでの道のりを振り返るにあたり、記憶だけを頼りにいい加減なことは書けないので、当時の練習日誌を引っ張り出して見返しました。
実施したトレーニング内容に関しては、自分でもビックリするほど基本的なことしかやっていませんでした。特徴として挙げるならば、自然の地形を最大限に利用してベーシックなトレーニングを行い、徹底的に基礎体力の拡大を行いました。
よくバイク練習のときに背中にランニングシューズを入れて出発しました。いくつか峠を上り下りするコースの途中に往復14㎞のトレイルランコースがあり、バイクで疲れきった足で走りました。反対に、ときには海岸線の平坦なコースでインターバル練習を行うこともありました。5時間単独走や10㎞のタイムトライアルなども行いました。
バイクに関しては、今までは集団の中で走ることだけを想定して練習してきたので、単独で練習することで最悪スイムで出遅れてバイクが単独になり、ひとりで前を追う展開になっても対応できるようにするためのトレーニングを実施しました。
これらのトレーニングは、 たとえスイムで出遅れても「 自分ひとりでも前を追う」という覚悟と「スイムで出遅れても大丈夫だ」という、スタート前の心理的余裕を生みました。
スイムでは50m×60本を一定ペース(クルーズ)で行った後(距離設定はレース距離の2倍)にさらに800m×1本をレースペースで行ったり、個人メドレーだけで3000m続けて泳いだり、60分ノンストップで(壁の手前5mでターンする)泳ぎ続け、同じコースで泳いでいる今枝さんと10分に一回合流して、速いペースで引いてもらい横につかせてもらう。
そして10分間が終了したら解散し、またお互い自分のペースで泳ぐということを繰り返すオリジナルの練習も行いました。先にも書きましたが、徹底した基礎練習の反復により基礎体力が拡大し、体力の拡大により気力が満ち、結果的に自信を取り戻したことが大きなポイントだったと思います。
大まかな計画は立てるけれど、自分の感覚を大切にして体調や状況に合わせて臨機応変に変えて行く。なるべく実戦(レース))に近い練習を心掛けました。
その他にも武道家の日野晃さん(日野武道研究所)に師事し、少ない力で最大のパワーを出す、身体を合理的に使い身体の可能性を最大に引き出す方法を学びました。いまでも私のランニングの理論はこの時に学ばせていただいたところから来ています。素晴らしい体験でした。
アイアンマン世界選手権出場権利を獲得していた!
実は今までに一度だけアイアンマンに出場したことがあります。2003年2月に行われたアイアンマ・マレーシアです。オフの途中に出場を選んだ理由は3つありました。
ひとつ目、自分の殻を打ち破るための挑戦。ふたつ目は、基礎体力拡大の一環として。3つ目はスイムの苦手意識克服のためでした。スイムに関しては大変苦労しました。
もしあのとき、レースで私のスイムがもう1分30秒早かったら、人生は大きく変わっていたかもしれません(笑)。スイムが苦手だった理由のひとつに、心理的なものが大きく影響していました。
バトルに対して苦手意識があったということと、スイムで出遅れて集団に乗り遅れてバイクで単独になることがとても怖かったのです。
オフの計画を立てるときに「だったら一度アイアンマンに出場し単独で180㎞走って、ラン42.195㎞も経験してみようじゃないか。そうしたらもう怖くないだろう!」という運びになりました(苦笑)。
特別にアイアンマンのためのトレーニングを行わなくても、そのとき行っていたオフトレーニングの内容で十分対応できると判断できたことも大きな理由でした。この取り組みは良い反応を引き起こしました。
以前のようにスイムで同じように遅れても、今までのように精神的なショックや心身の消耗が少なくなりました。精神的な余裕と落ち着きが生まれたことは、その後のバイクとランに良い影響を与えたことが結果に結びついたと分析しています。
さて、アイアンマンの結果は……? 苦手だったスイムを53分台でフィニッシュし、バイクの滑り出しも上々。
トップチューブに張り付けた小さなひと口サイズのおにぎりを食べながら、調子に乗ってどんどんペダルを回していたら、「ん? 何だかだんだん路面が荒くなって、道がガタガタなってきたぞ!」「んん? これは何かおかしい」と思い始めた頃、後ろから車が来て「戻れ―!」と叫んでいる。そう、コースを間違えたんです!
本来、左折するところを直進してしまいました。日本の感覚だと、曲がるところに誘導員がいるという思い込みがありました。たまたま私が通過するときにいなかったという説もありますが(笑)、真相はいかに。
ゴール後に走行距離を確認したら190㎞走っていました。なんて練習熱心(笑)。コースミスでだいぶ順位を落としましたが、そこから最後まで諦めず追い上げ総合4位でゴールしました。
ハワイ(アイアンマン世界選手権)の出場権を得ましたが、オリンピック予選を控えていたため、ありがたく辞退させていただきました。
その後はしっかりと回復させて、シーズンインに向け、暖かい沖縄で合宿を行いながら仕上げてきました。4月末のワールドカップ・アメリカ・フロリダ大会で12位、6月始めの韓国・トンヨン大会で6位に入賞し、その一週間後の蒲郡大会では、ホップ・ステップ・ジャンプが決まり、見事銅メダルを獲得することができました。
次回はアテネオリンピックに出場するまでを振り返りたいと思います。
>>次回へ続く。
※1カ月に1~2回不定期更新。
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>>#008【アテネに向けて再出発 カナダにトレーニング留学】
>>#009【理想の選手とコーチの関係性とは】
九州国際大学附属高等学校女子部陸上競技部。ダイハツ工業株式会社 陸上部に所属。1998年トライアスロンへ転向し、10年間プロトライアスリートとして活動。2008年に引退後、現在は3人の子育てをしながら、トライアスロンやランニングのコーチとして活動中。1975年生まれ、福岡県北九州市出身。
《主な成績》
1998年 ソウル国際女子駅伝 日本代表、横浜国際女子駅伝 近畿代表
2000年 シドニーオリンピック トライアスロン日本代表
2004年 アテネオリンピック トライアスロン 日本代表
2006年 アジア競技大会 (ドーハ) 銅メダル