前回のコラム>>【先輩の背中を見て真っすぐ強くなった私】#006
シドニーオリンピック開幕!
ゴールドコーストからシドニーに移動してからは、選手村には入らず、会場から近いホテルにナショナルチームで滞在しました。選手村とレース会場の距離があったためです。女子のレースが開会式翌日の第一競技だったため、身体の負担を考えて開会式にも参加しませんでした。大変残念でしたが仕方がありません。
願いがかなったのは4年後のアテネオリンピックに出場したときでした。アテネオリンピックのときは、選手村にも滞在し、閉会式にも参加することができました。閉会式会場のスタジアム内はものすごい迫力と強いライトと熱気で心が躍りました。
入場しながら、これがテレビで見ていたオリンピックの閉会式なんだな、夢じゃないよねと思いました。入場した後は自由行動になりますので、世界各国のさまざまな競技のたくさんの選手達と一緒に、広いスタジアムの中を緩やかに歩き、記念撮影をしたり、ピンバッジの交換をしました。
ピンバッジは交換用として個人でも用意しますが、日本選手団のスーツケースの中にもいくつか入っています(今は分かりません)。選手村でもどこでも誰とでも気が合えば交換します。名刺交換のような感じでしょうか。スポーツに国境もなければ言葉もいらないというのは本当だと思います。
そうそう! 閉会式に出るのは実は結構大変です。選手は式の始まる6時間くらい前には会場に集合します。そして実際に入場するまでも結構長い時間並びます。それも思い出になるんですけどね。
思い出と言えば……
レース時のボディーナンバリングは現在も行いますが、当時少し変わっていたのは、レースの前日にゼッケンのようなものを水着の前面に縫い付けました。会場だったオペラハウスの一階にレースナンバーの書かれたそれを縫いつけてくれる部屋があり(確かミシンのようなもので)縫いつけてもらうために、選手が一列に並んだことを思い出します。
ウエットスーツ着用だったからかもしれません。ウエットスーツじゃなかったら泳ぐときに抵抗になるので、今だったらあり得ませよね。そしてスイム会場だったのオペラハウス前の海にはサメが出る(出た?)ということで、本番はダイバーがサメよけの超音波が出る機材を持って潜水しました。
明日ですべてリセット
レース前日はとてもリラックスしていました。
1998年に陸上からトライアスロンに転向すると決めたとき、当時のパートナーだった陽一さんと、オリンピックに行けても行けなくても、2年間限定でチャレンジする、選手として悔いが残らないように完全燃するという約束していました。
この2年間オリンピックの舞台で走るといことだけを目標にがむしゃらにやってきたので、いよいよ明日本番となったとき、もう明日レースを一本走ったら私、引退するんだなと、この挑戦が本当に終わるんだなと、信じられないような、寂しいような、でも安堵のような、不思議と緊張はなく、何ともつかめない気持ちでした。
滞在していたホテルの近くに花屋さんがあったので、大好きな花をたくさん買ってベッドルームに飾り、翌朝までゆっくり眠ることができました。
今までにない積極的なスイムで好スタート
9月16日(土)レース当日は曇り空から天候は回復し、スタートの午前10時は良く晴れました。しかし水温は低く17度でウエットスーツ着用。私のスタート位置は、数日前のポンツーンドローのときに、スイムの得意だったカナダの選手をマークして左端から2番目でした。
スタートして直後にマークしていた選手を見失い単独になりました。今まで自分でコースを読んで泳ぐことよりも、人について泳ぐことに重点を置いて練習し、対策を立ててきたため、これが大きな誤算となりました。
左呼吸だったため、右側からスタートした選手がどんな状況なのかも良く分かりません。自分が今全体のどの位置を泳いでいるのか、遅れているのか順調なのかどうなのか。焦った気持ちのまま第一ブイを回りヘッドアップで周りを確認したとき、少し距離があるようには見えましたが、前に大きな集団が見えました。
その集団の大きさから、自分がまだそれほど遅れていないことが分かりました。その集団は第2ブイに対して右に大きく曲がっていて、余計に距離を泳いでいることが分かりました。いつもよりすごくまわりの景色がクリアに見えて頭の中が冷静でした。
いつもであれば近くを泳いでいる集団を探し、合流するところですが、そのときは「今チャンスだ。よし、真っすぐ突っ切ってみよう」となぜか力が湧きました。無我夢中で泳ぎ第2ブイを回るところで前の集団に追いつき、そのまま集団の先頭まで上がり、全体の20位、第2集団の先頭あたりでフィニッシュしました。今までにない積極的な内容でした。
日本人選手トップでスイムフィニッシュしたのは庭田清美選手でした。庭田選手はそのまま先頭集団に入り、第2集団には私と細谷はるな選手が入りました。
何も聞こえないほどの大歓声の中で
トランジションを出てすぐ、オペラハウス前の長い上坂を上がった所にクレーンカメラが設置されており、通過する選手達の姿を追っていました。沿道の観客は数え切れず、道に沿って4重も5重も重なり声援を送り続けます。コーチの指示も何も全く聞こえない状況でした。
バイクに入り第1集団と第2集団の差は50秒ほどでした。私のいた第2集団は積極的に前を追っていましたが、2周目に入ってところで、私のすぐ後ろで落車が起こり、優勝候補のひとりだったカナダのキャロル・モンゴメリ―選手(同大会で陸上1万メートルも代表になっていた)や細谷選手を含む数名の選手が巻き込まれました。
この落車により第2集団のペースが上がらず、周回毎に先頭と差が開いてしまいました。バイクコースは平坦がなかったわけではありませんが、コースの約半分が上るか下るかで、Uターンが2カ所あり、場所によって道幅も狭く、位置取りが大変難しいコースでした。前を追いたい、何とかしたい気持ちはあっても、集団の中で自分の位置を確保するのが精一杯でした。
ランに入りオーバーペース覚悟で前を追いましたが、力及ばす総合17位、ランラップ9位でした。とても無念な気持ちでゴールに向かう最後の坂を下りました。
ゴール後ミックスゾーンで、合流したナショナルチームのスタッフと談笑していたとき、ひとりの女性に声をかけられました。周りがざわざわしていてよく聞き取れなかったのですが、どうやらスイムキャップにサインをして、そのスイムキャップをくださいと言っているようだったので、サインをして渡しました。
後ほどそれ知った周りの方に「なんてことをするんだ! 価値が分かっていない!」と呆れられたのですが、なんとその後、ある方の情報で「平尾さん(編集部注:関根さんの旧姓)のシドニーで使ったスイムキャップが、スイス・ローザンヌのオリンピックミュージアムに、メダリストたちのレースウエアと並んで展示されているよ!」と。
なんてことだ!(笑)どういう経緯でそこにたどり着いたのか分かりませんが、大変驚きました。
初オリンピックは庭田選手の14位が日本人最上位
優勝はスイスのブリジット・マクマホン選手。2位には優勝候補だったオーストラリアのミケリー・ジョーンズ選手が入り、3位はスイスのマガリ―・メスマー選手でした。
日本人トップは庭田清美選手の14位。バイクで落車した細谷はるな選手は、その後もレースを続けましたが、4周目でマーシャルに止められてリタイヤしました。負傷しながらもレースに復帰して頑張る彼女の姿は翌日の地元の新聞に掲載され、大変称えられました。
翌日の男子のレースは、スイムが得意だった福井英郎選手が4位の好位置でスイムを終え好調な滑り出しを見せ、総合順位36位でフィニッシュ。バイク2周目で単独で前を追い積極的なレースを展開した、ナショナルチームの主将を務めた小原工選手が総合21位。
スイムを22位でバイクに移りながらも、トランジションを出てすぐの最初の坂で集団に乗れず、得意のランで力を発揮できなかった西内洋行選手は総合46位でした。日本チームとしても、私たち選手個人にとっても、すべてが初めての経験と流れの中で、全員がベストを尽くしたオリンピックが終わりました。
レース後のコメントで大誤算!?
レースが終わった夜に、現地で慰労会が行われました。当時の応援団長だった、芸能人のにしきのあきらさんも迎えて盛大に行われました。
その席上で選手が一人ひとり、出席者の皆さんへ御礼と感想を言う場面がありました。そのとき、泣いてしまいました。17位という成績に対しての自分の不甲斐なさと悔しい気持ちがあったんですけど、一番は完全燃焼ができなかったことです。
でも、ひとつ大きな収穫もありました。オリンピックという大舞台のスイムで初めて見た世界(景色)があったんですね。何かをつかんだ気がしていました。そんなこんなを交えながら「このままじゃ引退できない」と泣きながら言ったら、そのコメントを聞いたにしきのあきらさんが「じゃあ完全燃焼するまでやったらいいじゃないか!」と言ったんですね。
それを受けた私はなんとその場で「4年後のアテネを目指します!」と、宣言してしまいました。それを聞いたパートナーの陽一さんはビックリしたわけです。え? 俺は聞いてないぞ!と(笑)。
それもそのはずです。トライアスロンを始めたときのふたりの最初の約束が、「2年間限定」という期限付きのチャレンジだったわけですから。そして、ここからまた二人三脚の長い道のりが始まりました。
>>次回へ続く。
※1カ月に1~2回不定期更新。
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>>#001 オリンピアン関根明子さん、コラム始めます!~徒然なるままに~
>>#002【水泳から陸上へ――高校受験が転機に】
>>#003【トライアスロンとの運命的な出会いのきっかけとなった人】
>>#004【本格的にトライアスロンの道へ】
>>#005【シドニーオリンピックをどうやって決めたのか】
>>#006【先輩の背中を見て真っすぐ強くなった私】
九州国際大学附属高等学校女子部陸上競技部。ダイハツ工業株式会社 陸上部に所属。1998年トライアスロンへ転向し、10年間プロトライアスリートとして活動。2008年に引退後、現在は3人の子育てをしながら、トライアスロンやランニングのコーチとして活動中。2022年「プライベートサロン Ohana」を開業。1975年生まれ、福岡県北九州市出身。
《主な成績》
1998年 ソウル国際女子駅伝 日本代表、横浜国際女子駅伝 近畿代表
2000年 シドニーオリンピック トライアスロン日本代表
2004年 アテネオリンピック トライアスロン 日本代表
2006年 アジア競技大会 (ドーハ) 銅メダル