前回のコラム>>【シドニーオリンピックをどうやって決めたのか】#005
オリンピック代表決定と多忙な日々
5月に代表に決定し、忙しい日々が続きました。日本代表選手団のユニフォーム採寸や記者発表。地元母校での壮行会や取材。興奮と緊張が続き、充実した日々を過ごしていましたが、本当はここで短い休養期間を設け少し英気を養っても良かったかも知れません。
このままオリンピック本番まで集中力とエネルギーがもつのか。自分の中に不安がありましたが、当時はただ弱気になっているのだと思い、さらに気を引き締めました。
緊張の糸が緩んでしまったら、調子が落ちてしまうのではないか。いまこの流れを変えてしまったら、ツキを手放してしまうのではないか。それが怖かったのだと思います。
本番のちょうど2カ月前にあたる7月16日にワールドカップ東京港大会が行われ、日本代表壮行試合でした。大変暑い日でした。成績は出場者10名中、第6位。終始見せどころがなく、精神的にも肉体的にも大きなダメージが残りました。
尊敬する先輩から学んだこと
そのレースで日本人トップの第2位になったのは、補欠代表の小梅川雪絵選手(チームテイケイ)でした。レース巧者で暑さにも強く、経験も豊か。終始安定したレース運びで自身初となるワールドカップ表彰台を獲得しました。
今でも私の最も尊敬する先輩であり、彼女から学んだことは数え切れません。選手としての在り方やスポーツマンシップ、トレーニングへの姿勢、レースの組み立て方。ライバルでありながら、時にお姉さん的存在で、数多くの合宿と遠征を共にさせていただきました。
レースでは、経験が少なくスイムが苦手だった私がマークして横について泳いでも嫌がらず、バイクの集団の中では、私の位置取りが悪い時「今はここだよ!」という風に手本を見せてくれたこともありました。
当時はまだそれほどルールが厳しくなく大らかな時代でした。彼女の背中を見てたくさんの事を学び、真っすぐ強くなりました。数年後、自分が同じ立場になった時、先輩としてオリンピアンとして、若手に対するあるべき姿と理想像に大きな影響を与えました。
ウォーミングアップの在り方を考えさせられた出来事
東京港大会で印象的な出来事がありました。この時に生まれた点が、7年後のアジア選手権でようやく線になり、これまでのウオーミングアップに対する概念を変えました。
大会当日の朝、会場に入る前に小梅川選手と宿舎近くのプールにアップに行きました。その日は気温が上がり、タフなレースになる事が予想されていました。本番に向けてまだ強化している時期だったので、調整を行っておらず疲労がある状態でしたが、いつも通りのメニューを行いました。
隣のコースでアップしていた小梅川選手は10分から15分程度でしょうか、のらりくらりといった感じでゆっくり軽く泳ぎ、スタートダッシュもせず先に上がってしまいました。その時それを見て「心拍を上げていないし、こんなアップで身体は動くのだろうか」と疑問に思いました。
手を抜いているというか不真面目というか……そんな印象をもってしまいました。しかし蓋を開けてみれば、ベストパフォーマンスを発揮したのは小梅川選手でした。この出来事が後に「ウオーミングアップって何?」と考えるきっかけとなりました。
本来ならウォーミングアップはそのときの状況や体調に合わせ行うものです。それまでの私は調子が良くても、悪くても、気温が高くても低くても、故障明けでも、いつも同じ内容を行っていました。
たとえば、暑ければ体力の消耗を考慮し、涼しい環境で短時間で仕上げなければなりません。疲労がある状態であれば、強度をコントロールしながら、いつもより時間をかけてゆっくり丁寧にエンジンをかけるように心がけます。
そしてその後に慎重に高心拍の刺激を短めに入れ身体の反応を見ます。いろいろなパターンがあると思いますが、ここで大切になってくるのはただひとつ。自分の身体のレディーゴーの状態、号砲が鳴ったら、エンジン全開で行ける状態(身体の感覚)を知っていることです。
その状態に向けて身体を温めていく事がウォーミングアップの目的だと思います。要は心拍と筋温が上がればどんな運動でも良い。
だから極端な話、そのレディーゴーの状態に体調をもって行けるのであれば、必ずしも3種目やらなくても良いと思いますし、縄跳びだって、もしかしたらバスケットだって(笑)私は良いのではないかと思います。
7年前の出来事がアジア戦優勝につながった
いくつかの点が線としてつながったのは2007年のアジア選手権(韓国)でした。現地入りした翌日から、倦怠感とのどの痛みがありました。練習出来る状態ではなかったため、レース当日までなるべく部屋で安静にしました。
会場の水温が低かったこともあり、現地に入ってからスイムは行いませんでしたし、バイクもランもほとんど出来ませんでした。レース当日も大事をとってスイムのアップを行いませんでした。
私はスイムに課題があったので、スイムには大変神経質になっており、レース前に3日も泳がず、アップでもスイムを行わないという経験がこれまでありませんでした。そんな状況でしたが、いざレースをスタートして泳ぎだしてみたら……ん? 身体が良く動く。悪くない。
速い集団に楽に付くことができ、バイクもランもどんどん調子が上がり、最後は気持ち良くロングスパートが決まって優勝しました。そのときに「アップって、そういうことなんだ!」と腑に落ちたんですね。えらい長くかかりましたけど(苦笑)。
皆さんも固定概念にとらわれず、普段のトレーニングで色々なウオーミングアップを試してみて下さい。なるべく効率的に短時間で仕上げる方法を見つけていただきたいと思います。
話は戻ります。
これが本番前の最後のレースになりました。その後は約1カ月間、オーストラリアのゴールドコーストでナショナルチーム合宿を行い、そのままシドニーに入りました。選手、コーチ陣、コック、メカニック、トレーナ、ドクター、通訳の大所帯でした。
ゴールドコーストからシドニーまでの移動の際は、選手の負担を軽減するため、バイクの破損や輸送トラブルが無いように、大型バスで荷物を陸送していただきました。素晴らしいサポート体制の中で、選手は安心して最終調整を行う事ができました。次回は決戦の地シドニーへ。
>>次回へ続く。
※1カ月に1~2回不定期更新。
【コラムを最初から読む】
>>#001 オリンピアン関根明子さん、コラム始めます!~徒然なるままに~
>>#002【水泳から陸上へ――高校受験が転機に】
>>#003【トライアスロンとの運命的な出会いのきっかけとなった人】
>>#004【本格的にトライアスロンの道へ】
>>#005【シドニーオリンピックをどうやって決めたのか】
九州国際大学附属高等学校女子部陸上競技部。ダイハツ工業株式会社 陸上部に所属。1998年トライアスロンへ転向し、10年間プロトライアスリートとして活動。2008年に引退後、現在は3人の子育てをしながら、トライアスロンやランニングのコーチとして活動中。2022年「プライベートサロン Ohana」を開業。1975年生まれ、福岡県北九州市出身。
《主な成績》
1998年 ソウル国際女子駅伝 日本代表、横浜国際女子駅伝 近畿代表
2000年 シドニーオリンピック トライアスロン日本代表
2004年 アテネオリンピック トライアスロン 日本代表
2006年 アジア競技大会 (ドーハ) 銅メダル