前回のコラム>>【期間限定のはずが にしきのあきらさん の言葉に勢いで……!?】#007
愛知で新たなスタートを切る
4年後のアテネオリンピック出場を目指し、まず行ったのは環境を変えるということでした。
はじめにシドニーを目指したときは、ただオリンピックに出たい、持っている能力をすべて使い切ってみたい。完全燃焼したいという一心でしたが、4年後、もう一度オリンピックを目指すのであれば、もう出場するだけではモチベーションになりませんでした。
目標は高く、必然的にメダル獲得になりました。そのためには以前から、選手として自立することが必要だと感じていました。コーチに言われたことをそのままやるだけの選手から、自分を知り、自分で考え行動する選手にならなければならない。年間計画を立てる。
いつどのレースに出場して、誰とどのような環境でどのようなトレーニングを行うのか。サポートや助言が欲しいときに誰にお願いするのか。メダル獲得と並んで、セルフコーチングができる選手になるということが目標になりました。
当時のエリートで特定のコーチをもたずに活動する選手は男女ともにまだおらず、それは大きなチャレンジでした。
新しい環境を求めて2001年の冬、知人を頼って愛知県岡崎市へ拠点を移しました。愛知県を選んだ理由は、当時県内には実業団チームが2チームあり、トライアスロンが大変盛んだったことと、練習環境が素晴らしかったからです。
東京でトレーニングしていた頃は、バイクの乗れる場所まで車で30分も移動しなければなりませんでしたが、拠点を変えてからは自宅からロードレーサーで数㎞走ればすぐ山に入ることができましたし、海も近かったので海岸線には素晴らしいバイクコースがたくさんありました。
オープンウォーターで泳ぎ放題。バイクロングライドの終わりにプルブイをもって海に入り、クールダウンということもありました。まるで毎日が合宿に来ているようでした。
目標が決まり、拠点も移し順調なスタートを切ったつもりでしたが、なぜか朝から身体が重くて気力がなく、起きられない日が多くなり、原因不明の微熱が続きました。回復した後も月に1回程度発熱しました。
オーバートレーニング症候群だったんだなと、今なら分かりますが当時は分かりませんでした。気が付かない間に蓄積していた数年分の心身の疲労と、これから頑張らなければならないという気負いがあったのでしょう。
思いついたら即行動
体調が回復しトレーニングも軌道に乗ってきたころ、ひとつの思いがわき上がってきました。「海外でトレーニングしてみたい」という思いです。もともと天邪鬼で集団行動が苦手だった性格もあったと思います。何か自由を求めていたのかも知れません。「そうだ! カナダに行こう」と思いました。でもなぜカナダ? そう思うでしょう。
ケンとの出会いは1999年。カナダのニューファンドランド島で行われたワールドカップ(現在のワールドトライアスロンチャンピオンシップシリーズ)でした。レースの前日にプールで調整をしていたところ、プールサイドからいきなりカナダのナショナルチームのウエアを着たおじさんが声をかけてきました。
「おい! もっと腕をこうしろ!」とか頭の位置がどうだこうだ、と言っていたと思います。宿泊していたホテルも偶然同じで、レース当日もホテルのロビーで再会し雑談をしました。
話していると、どうやら併設されていた一般レースに出場するカナダ選手を引率してきたコーチのようでした。状況によっては変わった人だなと感じたり、適当に受け流して気にも留めなかったかもしれません。
でもそのとき、その一連の出来事が私の中で大変印象に残りました。アドバイスも的を外していないな、そう感じました。
そしてそこから2年弱が経ち……ここで前述の「カナダに行こう」というところに繋ります。海外でトレーニングしてみたい=そうだ! ケンのところに行こう! と思いました。これには、旦那をはじめみんなびっくりです。愛知に拠点を移したと思ったら、次はカナダに行きたいというのですから、当然かもしれません。
知っている情報は「ケン」と「カナダのナショナルチームウエアを着ていた中年男性」だけです。もしかしたらカナダのナショナルフェデレーション(以下NF)に問い合わせたら何か分かるかもしれないと思いました。
日本トライアスロン連合に相談をしたところ、カナダのNFと連絡をとってくださり、なんとケンと連絡が取れました。コーチングを引き受けてくれると。感謝と驚きです。いろいろな方のお力を借りて念願叶い、海外トレーニング留学が実現しました。
カナダへトレーニング留学
カナダではたくさんの素晴らしい経験をしました。中でも一番印象に残り私の中で宝となっているのが、エチオピアの英雄で陸上長距離選手ミルツ・イフター(1980年モスクワオリンピック5000m・10000m金メダル/1972年ミュンヘン10000m銅メダル)のランニングセッションに参加していたことです。イフターは、内戦から逃れるためにカナダに移住していました。
当時住んでいたミルトンという町から練習場所のトロント市内まで高速道路を使って1時間ほどかかりました。当時はナビなどなく、地図もよく分からない(笑)。高速道路の降りる所を間違えては道を戻り、歩いている人をつかまえて場所を聞くなどをくり返し、毎週、危なげながら通いました。
参加者は幅広く、一般のランナーから将来オリンピックを目指す中学生くらいの男の子など個性豊かでした。市街地のはずれにある土のトラックでしたが、そのトラックはすり鉢状の形をした底にあり、周囲(壁面)はデコボコした土で草もたくさん生えていました。
よく行ったトレーニングは400m×10本~20本。トラックを全力で走った後、つなぎ(休息・インターバル)はデコボコした草の生えた斜面を上って下って戻ってきて、またトラックを全力で走ることを繰り返す。
普通のトラック練習ではゴールした後、そのままトラック(平坦)でインターバル(休息)をとりますが、イフターのセッションではつなぎを不整地のアップダウンで行うわけです。心拍が落ちきらないままトラックに戻ってきて、また全力で走る。鬼です(笑)。
この地形はエチオピアによく似ていると言っていました。そのときにエチオピアの選手たちはこんなトレーニングを行って強くなるんだと思いました。今、そのトレーニングは私が担当するジュニア練習会で良くやっています。
ヤフターの脛を見せてもらったことがあります。脛だけ皮膚の色が真っ白でした。スパイクで蹴られ、皮膚が傷ついた跡でした。トラックは格闘技だと言っていたのが印象的でした。なんと貴重な体験をしたのでしょう。いまこの文章を書きながら感動と興奮がよみがえってきます。
そしてもうひとつ、カナダではトライアスロンやランニングのロードレースやクリテリウムなど、スポーツのイベントや練習会が毎週どこかで行われていて、よくトレーニングの一環として出場していました。
日本と違って良いな~、羨ましいなと思ったのは、合宿で行ったニュージーランドやコーチング研修で行ったオーストラリアなんかでもそうでしたが、週末はもちろん、結構平日の夕方にスタートのレースもありました。
当日エントリーもできて、少額ですが賞金もある。設営も簡素で運営・管理も良い意味で適当(笑)。更衣室がないことも多かったので、参加者は駐車時に止めた車の中で着替えたり、会社帰りであろうスーツ姿のサラリーマンが、ウエットスーツを肩から掛けてフラッとやってきて、受付する姿も見かけました。
そしてレースが終わったら、みんなサーっとあっという間に帰っていく。文化が違うなと感じました。
ケンからコーチングを受けた期間は1年半ほどでしたが、コーチと選手のフラットな関係や生活やトレーニングを通して学んだことは、帰国してからもその後の競技に大きな影響を与えました。ここに書ききれないのが残念ですが、また何かの機会にお話しできたらと思います。
>>次回へ続く。
※1カ月に1~2回不定期更新。
【コラムを最初から読む】
>>#001 オリンピアン関根明子さん、コラム始めます!~徒然なるままに~
>>#002【水泳から陸上へ――高校受験が転機に】
>>#003【トライアスロンとの運命的な出会いのきっかけとなった人】
>>#004【本格的にトライアスロンの道へ】
>>#005【シドニーオリンピックをどうやって決めたのか】
>>#006【先輩の背中を見て真っすぐ強くなった私】
>>#007【期間限定のはずが にしきのあきらさん の言葉に勢いで……!?】
九州国際大学附属高等学校女子部陸上競技部。ダイハツ工業株式会社 陸上部に所属。1998年トライアスロンへ転向し、10年間プロトライアスリートとして活動。2008年に引退後、現在は3人の子育てをしながら、トライアスロンやランニングのコーチとして活動中。1975年生まれ、福岡県北九州市出身。
《主な成績》
1998年 ソウル国際女子駅伝 日本代表、横浜国際女子駅伝 近畿代表
2000年 シドニーオリンピック トライアスロン日本代表
2004年 アテネオリンピック トライアスロン 日本代表
2006年 アジア競技大会 (ドーハ) 銅メダル