前回のコラム>>【アテネに向けて再出発 カナダにトレーニング留学】#008
選手とコーチの関係性について思うこと
前回のコラムでは、カナダトレーニング留学のときの思い出や出来事を書きましたが、少し時間が経ちさらに思い出したこともありますので、もう少し振り返りたいと思います。
ケンのコーチングはとても面白かったです。指導者として上からものを言うのではなく、いつも対等でした。
私が「なんで完全休養がないんだ! 怒」と欲求をぶつけたり(笑)、「またこのメニューをやるの?」等よくケンカもしました。
あるときこんな出来事がありました。2001年7月にカナダのエドモントンで開催された世界選手権に出場したときのことです。レース前日、私は翌日にレースを控えすごく緊張して部屋で悶々としていたのですが、ケンとトレーナーとして帯同していた旦那は私に何も言わずに、午後から市街地にあった大きな観覧車に乗りに、ふたりで遊びに出かけました。
後にそのことを知り、すごく腹が立って文句を言いました。明日、私が大きなレースを控えているのに、そんな場合じゃないだろ! と。でも今考えると、それはすごく良かったんだと思います。コーチも選手も集中するときは集中して、オフはオフで上手に切り替えができれば良い。
日本のコーチはどちらかというと、例えて言うなら「同じ釜の飯を食って苦楽を共にする」のが当たり前で、一心同体のような感じですけれど、ケンの場合はあくまでも主体は選手だから、必要なときに必要なものを与えれば良い。上下関係がなく、いつだってフレンドリーでした。
そんなカルチャーショックもある中で、ケンの出すトレーニングメニューで一番驚いたのは、設定タイムがなかったことです。たとえばスイムでいうならば、技術的な指導はきめ細やかにありましたが、メインの練習のときに制限タイムがありませんでした。陸上のトラック練習でもそうでした。
出されているメニューの意味やターゲットなどが分からなければ、本当はあのとき、自分から聞かなければならなかったし、メニューをこなすだけでなく、その意味や意図を自分で考えなければなりませんでした。
一度不信感が募り「なんでこんなに楽なメニューばかり出すんだ!」と聞いたことがありました。すると、「アキコ、なぜ自分からハードを求めないんだ?」と言われました。
出されたメニューの中で余裕があれば、なぜ自分でハードに追い込んだり、余計にトレーニングしないんだということです。。今まで受けてきたコーチングとは全く違う世界でした。そのときの私は、考える力がなく、サークルや制限タイムで縛られなければ頑張れず、自分の基準がなかった訳です。
そのときはケンに対して腹が立ち、納得できませんでした。結局セルフコーチングできる選手になりたいと独立しながら、それがどういうことかを自分で理解できていなかったのです。
それからかなりの月日が経ち、ケンのメニューの真意に気が付いたのは引退してからでした。2018年から2年間受講した「スポーツ庁委託事業女性エリートコーチ育成プログラム研修」で本格的にコーチングを学んだときでした。
そのとき、今まで考えていたコーチングスタイルが崩れました。ケンはメダリストを育ててはいませんが、前回のコラムに書いたとおりミルツ・イフターとの交流や、当時もですが現在もバスケットや水泳など、さまざまなレベルの選手のフィジカルコーチをしており、コーチングに関しては当時も一流の知識があったと思います。
私はそれらの経験すべてから、理想のコーチとは、選手に対して常に上から与えるだけの存在ではなく、信頼関係のもとに程よい距離をとることができ、選手の成長につれその関係性を常に変化することができる。ある意味対等であるということを学びました。そこをいつも忘れないように、今コーチをしています。
海外留学を終えて、2003年あたりから日本での活動を再開しました。帰国してからもたくさんの方の協力と理解を得て、さまざまな人とさまざまな環境でトレーニングしました。
新たに頼もしトレーニングパートナーと出会う
しかしすぐにそのスタイルに限界を感じるようになりました。必ずしもそのときやりたい練習が行った先でできる保証がなく、トレーニングの質や強度、3種目のバランスが取りづらいという問題が出てきました。
そこで自分のスタイルを確立するために、ひとりの男性トライアスリートにトレーニングパートナーをお願いすることにしました。現在も愛知県で活動されている今枝誠さん(チームゴーヤー・アクアヴィータトライアスロンスクールコーチ)です。
もともとはロングディスタンス(アイアンマン)の選手でしたが、ご縁もありトレーニング理論や目指す方向性が良く合いました。2003年ワールドカップ蒲郡大会の銅メダルと2006年ドーハアジア競技大会銅メダルは、今枝さんと活動中に獲得したメダルです。
苦手なスイムを克服しようとアイアンマンに挑戦したこと、休養日を2日連続にしてメンタルの休養日も設けたこと、能力面と性格や行動面の特徴をはかるために、奈良県にある教育大学までクレペリン検査を受けに行ったこともありました。次回は2つのメダル獲得までの道のりを振り返りたいと思います。
>>次回へ続く。
※1カ月に1~2回不定期更新。
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>>#008【アテネに向けて再出発 カナダにトレーニング留学】
九州国際大学附属高等学校女子部陸上競技部。ダイハツ工業株式会社 陸上部に所属。1998年トライアスロンへ転向し、10年間プロトライアスリートとして活動。2008年に引退後、現在は3人の子育てをしながら、トライアスロンやランニングのコーチとして活動中。1975年生まれ、福岡県北九州市出身。
《主な成績》
1998年 ソウル国際女子駅伝 日本代表、横浜国際女子駅伝 近畿代表
2000年 シドニーオリンピック トライアスロン日本代表
2004年 アテネオリンピック トライアスロン 日本代表
2006年 アジア競技大会 (ドーハ) 銅メダル