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【アテネオリンピック前に三宅義信さんから学んだ勝負哲学】#011 関根明子

投稿日:2023年9月29日 更新日:


ルミナ編集部

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2004年アテネオリンピック トライアスロン

2004年アテネオリンピック ©Frank Wechsel/ITU

前回のコラム>>【アイアンマンに挑戦したのは、 自分の殻を打ち破るため】#010

アテネオリンピック直前の過ごし方

早いものでこのコラムも11回目を迎えることができました。改めて自分を振り返る機会を与えていただいていることに感謝するとともに、紆余曲折ありときに迷走もしましたが、これまでの成功や失敗と思われる経験が、これからオリンピックを目指して希望と野心に満ち、自分の道を信じて邁進していく次世代の選手たちへ、またトライアスロンを通じて自己実現を目指している方たちの参考と励みになればと、勝手に思いながら今回も書かせていただきます。

ワールドカップ蒲郡大会で銅メダルを獲得した後、いよいよ翌年のアテネオリンピックに向けて本格的に焦点を絞り活動しました。

同年11月にニュージーランドのクイーンズタウンで行われる世界選手権大会がオリンピック代表選考会の一戦目として指定されており、そこで表彰台に上がれば代表内定が約束されていました。

シドニーオリンピックでは、代表が決定してから本番まであまり時間がなく、トレーニングとレースのバランスや精神的なケアも含めて整えることが十分にできなかったという思いから、できれば早めに内定をいただき、オリンピック本番を余裕をもって迎えたいという思いでした。

そのような理由から、世界選手権に対してはいつも以上に重点を置き、ナショナルチーム行動とは別で少し早めに現地入りし、レースのコースを使って個人合宿を行い調整するというプランでした。

関根明子コラム 2004年アテネオリンピック

2004年アテネオリンピックバイクコース ©Frank Wechsel/ITU

合宿を行いながらレースの4日前に行われるアクアスロン世界選手権に出場して刺激を入れた後、本番を迎えるという流れでした。しかし本番の結果は26位。惨敗でした。

生理前のPMS症候群の時期に重なってしまったということもありますが、一番の原因は慎重になり過ぎるあまりに練習量を早めに落とし過ぎたということと、私のメンタルにあったと思います。

基本的に完璧主義で理想が高く常に自信がない。うまくいっているときは好転的に働きますが、何かのきっかけで自信を失うとそれが対極に向かってしまいます。特定のコーチをもたないという選択は、さまざまな恩恵がありますが、時に視野が狭くなり、自分の殻から出るのに時間がかかってしまいます。

選手として活動できる時間は有限であり、回り道をしてしまうときに、チャンスを逃してしまうことがあります。自分を見失った時や方向性が分からなくなった時に、客観的な判断やアドバイスをくれるメンター的な存在は絶対に必要です。

それはどのレベルになってもそうです。私には常にそばで見守ってくれている主人という存在がありましたが、家族となるとさまざまな感情が挟み込んでしまうのと、距離が近過ぎて素直に相談ができないし、受け入れる事ができませんでした。

後の話にも続きますが、人との距離の取り方や関係性について、現役時代を通じて貴重な教訓を得ました。

アテネオリンピックレース前のトランジションエリアにて 写真=関根さんご提供

調子が上がらないときこそ基本に帰る

11月に世界選手権を終えオフに入りましたが、惨敗の原因を究明できないままでした。年末年始にかけて、ナショナルチーム合宿が沖縄県石垣島で行われました。自分の状況との差を目の当たりにして、調子が悪いのではなく、実際に力が落ちていることを知りました。

もしかして間に合わないかもしれない。そこですべてにおいて自分の実力のなさを認め、合宿中に飯島健二郎コーチに頭を下げ、もう一度指導を受けさせていただけないかとお願いをしました。

複雑な気持ちはあったと思います。しかし最終的にまたコーチングを引き受けてくださることになりました。このときの飯島コーチの指導がなかったら、アテネオリンピックの12位(当時日本人最高位/歴代3位)は絶対に達成できなかったでしょう。代表にさえなれなかったかも知れません。

年が明け、指導を受けるために東京へ戻ることになりました。古巣にもどり初心を取り戻し、春からのオリンピック選考会に向け準備の日々が始まりました。

4月にフィリピンで行われたアジア選手権大会で優勝し大陸別代表で内定を獲得し、1カ月後に行われる最終選考会の世界選手権マデイラ大会(ポルトガル)に向けて弾みを付けました。

しかし、順調に進んでいる中で大変ショックな出来事がありました。世界選手権2週間前に母が脳梗塞で倒れそのまま亡くなりました。連絡を受けてから3日後のことでした。主人との結婚を最後まで反対しており、関係を断絶したまま突然の別れとなりました。

寝不足や精神的ショックから体調が落ちてしまい、世界選手権に向けて調整してきた筋肉に張りがなくなりました(筋肉に弾力がない=筋力の低下=力が出ない)。そこで当時の飯島コーチはどのような方法をとったのか。

ポルトガルに入ってからレース前日ギリギリまで基礎トレーニングを行いました。スポーツに限らず勉強でも何でもそうだと思いますが、調子を落としたり、何かがしっくりこないというときは、絶対に基本に戻ることだと思います。しっかりとした基礎(土台)のもとがなければ応用は発揮できないのです。

三宅さんはじめ、日本チーム。アテネオリンピック後の慰労会にて 写真=関根さんご提供

通常のレース前の調整では持久力と筋力を落とさないように気を付けながら、少しづつ練習量を落としながら疲労を抜きます。人により、また状況により、一度練習量を落とした後にだんだん強度を上げていきホップステップジャンプで調子を上げる方法もあります。

ベース(体調)が落ちている時に強い刺激を入れると、ダメージになってしまいます。目的は同じ。レースの日のスタート時間に体調をピークにもっていく。そのときは基本トレーニングをギリギリまで行うことが最善の策だったわけです。

レースの前日に得意のランニングで(※ここで得意種目を選ぶところもポイントです)1㎞4分ペースで6㎞のペース走を行いました。走りながら「レース前日にこんな強度で大丈夫かしら」と思ったことを思い出します。

さて、その結果はどうだったでしょう。世界選手権という大舞台で第10位に入り、ランラップ3位という結果でした。私が最も世界のトップに近かった瞬間だったかもしれません。

オリンピックのメダルも夢ではないように思えました。日本人のトップは中西真知子選手でした。得意のスイムで先頭集団を形成し、粘りの走りで第6位に入賞しました。世界選手権で日本人がふたりトップ10に入る時代がありました。

このような経験から、レース前の調整についてアドバイスをするときは「スタートする直前まであきらめないように最善を尽くす」とお伝えするようにしています。あまり神経質になり過ぎて、往生際が悪くなってしまい、マイナスに働く場合があるかもしれませんが、当日の食事やウォーミングアップでも、パフォーマンスを上げるためにできることがあるのです。

三宅義信さんから学んだ勝負哲学

代表に決定してからオリンピック本番までは、ナショナルチームで合宿を行いながら仕上げていきました。当時のナショナルチーム監督は1964年の東京オリンピック・重量挙げで金メダルを獲得した三宅義信さんでした。トライアスロンの経験はありませんでしたが、重量挙げはスナッチ・ジャーク・プレス3種目の合計で勝負するということと、スイム・バイク・ランの複合種目であるトライアスロンとの共通点がありました。三宅監督と活動を共にさせていただき、たくさんの勝負哲学を教えていただきました。

宮古島で合宿を行ったとき、三宅監督の発案で1週間に51.5㎞のオリンピックデイスタンスを3回行ったことがありました。シンプルに説明するならば、本番前に3種目通しでやってみないと状態が分からないだろ? ということです。

関根明子コラム

宮古島合宿で、三宅さん考案の51.5㎞のシミュレーション練習を行った後、ボランティアの皆さんと

あともうひとつの理由に、対戦相手がいる野球やサッカーのように、ゲームはゲームで鍛える。実践の積み重ねが一番力をつけるということです。レースペースで行うときと、個人のテーマをもって行うときとそれぞれでしたが、その当時の常識からいえば強度が高過ぎると、最初はコーチ陣も選手も大変反発しました。

しかし、これが結果的に大変良いトレーニングになり、今ではエリート選手の中では本番前の調整方法としてスタンダードになりつつあると思います。

ここからは引退後にお聞きした話ですが、三宅さんは現役の頃、力の発揮(入れ具合)をコントロールする感覚とバランス感覚を養うために、トレーニングに卓球を取り入れたり、剣道をしたりしたそうです。

今でいうマルチトレーニングだと思うのですが、何も情報のなかった当時に自分の感覚で取り入れていたわけです。恐怖心を克服するために自衛隊の訓練に参加し落下傘で上空から飛び降りたこと、メンタルを鍛えるために一晩中電気をつけて眠ったことなども教えていただきました。現代に合うのかは分かりませんが、やはり金メダリストはやることも考え方も異次元なのだと思います。

次回はもう少しトレーニング理論を交えながら、アテネオリンピックとその後、2006年ドーハアジア競技大会で銅メダルを獲得するまでの道のりを振り返りたいと思います。続く。

>>次回へ続く。
※1カ月に1~2回不定期更新

【コラムを最初から読む】
>>#001 オリンピアン関根明子さん、コラム始めます!~徒然なるままに~
>>#002【水泳から陸上へ――高校受験が転機に】
>>#003【トライアスロンとの運命的な出会いのきっかけとなった人】
>>#004【本格的にトライアスロンの道へ】
>>#005【シドニーオリンピックをどうやって決めたのか】
>>#006【先輩の背中を見て真っすぐ強くなった私】
>>#007【期間限定のはずが にしきのあきらさん の言葉に勢いで……!?】
>>#008【アテネに向けて再出発 カナダにトレーニング留学】
>>#009【理想の選手とコーチの関係性とは】
>>#010【アイアンマンに挑戦したのは、 自分の殻を打ち破るため】

関根明子 Akiko Sekine
九州国際大学附属高等学校女子部陸上競技部。ダイハツ工業株式会社 陸上部に所属。1998年トライアスロンへ転向し、10年間プロトライアスリートとして活動。2008年に引退後、現在は3人の子育てをしながら、トライアスロンやランニングのコーチとして活動中。1975年生まれ、福岡県北九州市出身。
《主な成績》
1998年 ソウル国際女子駅伝 日本代表、横浜国際女子駅伝 近畿代表
2000年 シドニーオリンピック トライアスロン日本代表
2004年 アテネオリンピック トライアスロン 日本代表
2006年 アジア競技大会 (ドーハ) 銅メダル

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