関根明子の徒然なるままに#014
前回のコラム>>【アテネを経て改めて想う選手と指導者の距離感】#013
選手時代、合宿の思い出
2023年も数えるほどとなりました。今年は何があったかな? と振り返っても、一瞬止まってしまうほど、記憶が頭の中で雑然としています。充実していたからなのか、忙殺されていたのか、はたまた加齢か(笑)どうなんだろう?
年末、この時季に思い出すのは合宿の思い出です。
高校時代は実業団の合宿に呼んでいただき年末年始は宮崎で過ごすことが多かったですし、実業団時代時代は「全日本実業団対抗女子駅伝(現在のクイーンズ駅伝)」や年が明けてからの「都道府県対抗女子駅伝」「大阪国際女子マラソン」とチームにとってビッグイベントが続くため、国内もしくはアメリカのニューメキシコ州やコロラド州で高地トレーニングを行っていました。
まだ日が昇らない暗い道を監督やコーチが運転する車のヘッドライトの明かりを頼りに白い息を吐きながら走った日々は、少し切ないような誇らしいような、青春の一ページです。
トライアスロンへ転向してからも石垣島など温暖な場所で合宿中に新年を迎えることが多く、心からリラックスして、トレーニングの進捗状況や体調を気にせずに迎える新年は引退してからです。
引退したときのあの晴れ晴れとした、荷を下ろしたような気持ちは今でも新鮮に覚えてますが、人の記憶というのは曖昧で、時間とともに心は変化するものだと思うのは、ここ最近、もう二度とあの頃には戻れないと思うと、あら不思議。
選手だった時代が自分の人生の中でいかに充実し密度が濃く幸せな時間だったのかと思います。きっと年齢を重ねたのでしょうね。
世界を飛び回った私が思い出す場所
合宿へ参加するために高校生で初めて飛行機に乗ってから、33歳で引退するまでの間、本当にたくさんの場所、国へ行きました。今回はこれまで訪れた国で素晴らしかった場所や思い出深い場所を振り返ります。
よく講演した後の質問で聞かれることは、「今までに行った国で一番良かったところはどこですか?」という内容です。私の中でのナンバーワンは1999年にワールドカップで行ったモナコ公国です。
コートダジュールの高級リゾート地として名高いモナコの街の公道を封鎖したバイクコースは、F1のモナコグランプリと同じコースでした。それだけでも贅沢なのに、コース脇には豪華なホテルやカジノ、ハイブランドの路面店が立ち並んでいました。
スイム会場の港湾部は個人所有のヨットやクルーザーが停泊し、そこから見上げた丘にはお城が建っていて、まるでおとぎ話の中にいるような雰囲気でした。宿泊していたホテルのすぐそばでは、毎朝朝市が開催されており、そこで買ったフランスパンが最高に美味しかったことを覚えています。
次はメキシコのカンクンです。こちらもカリブ海に面したメキシコ屈指のリゾート地です。カリビアンブルーといわれる真っ青な美しいカリブ海が何㎞も続いているような場所でレースをしました。
レースが行われた11月はちょうど年に一度開催されるメキシコの伝統行事の「死者の日」で、故人の魂が家族のもとに帰ってくるという日。日本でいうお盆といったところでしょうか。
デイズニー映画「リメンバー・ミー」を見たことのある方ならパッとイメージしやすいかもしれません。滞在していたホテル全体がとにかく華やかでカラフルなスカル(骸骨のイミテーション)が並び、たいへん陽気な雰囲気でした。
カンクンでのレースが終わった後シーズンオフだったため、そのまま数日間滞在し、世界遺産の「テオティワカン遺跡」へ行ったり、街でショッピングを楽しみました。
印象深かった場所は1999年に「アジア選手権ソクチョ大会」行った韓国です。ソクチョ市は韓国の北東部に位置している山と海に囲まれた自然豊かな場所でしたが、重武装されている北朝鮮と韓国の国境(板門店)からわずか50㎞だったので、街はいつ戦争がおこっても対応できるような雰囲気をもった、なそんな印象的でした。
たとえばバイクコースは道路幅がとても広く、平坦で見通しが良く走りやすかったのですが、それは有事の際に戦車が走行出来るようにということでしたし、ホテルの客室前の廊下も同じようにとても広かったのですが、それも緊急時に負傷者を収容するためだと聞きました。
日本にいると平和であることが当たり前ですが、すぐ隣の国では当たり前が当たり前ではないという現実を知りました。
その他はホテルの朝食に日本では見たことのない種類のたくさんのキムチが出てきてカルチャーショックを受けたこと、優勝賞金がウォンだったので、たくさんの札束でいただき、大金持ちだ! とみんなで大笑いしたこと。良き思い出です。
その他は……南アフリカのリチャーズベイに行ったときのこと。治安の関係でレース当日とコース試走以外は白人保護区の滞在ホテルの敷地から出られませんでした。面白かったのは、滞在していたホテルの自動販売機に野生動物の絵が描いたジャーキーのような干し肉が売っていたのでもちろんお土産に買って帰りました!
アジア選手権で行ったフィリピン・スービックベイでは、空港からレース会場まで移動する際のバスの中に、銃を持った警備員が乗っていて大変驚きました。文化の違いを感じたのは、レース前日に会場でトレーニングしていたら、現地の方が吹き矢を売りに来たので、使いみちはなかったけれど記念に購入し、バイクケースにそっと隠して持ち帰ったこと(笑)。
ワールドカップで行ったスペインのマドリッドで見た本場のフラメンコはとても力強く迫力があり圧倒されたこと。レースが終わりホッとしたところで、夕飯に本場のパエリヤを食べよう! となり地元のお店を探して入ったら「パエリヤは夜食べるものじゃない。夜食べているのは観光客だけだ」と言われ、食べられなかったこと。笑い話ですね。
これを書きながら、トライアスロンをやっていなかったら、こんなにいろいろな経験はできなかったと思うと、改めてこれまでお世話になってきた方々や指導してくださった恩師の方々、支えてくれた方々に感謝の気持ちでいっぱいです。
そしてようやくこれまで歩んできた道のりを振りる余裕が生まれ、自分を誇れるようになった心の変化に驚きつつうれしく思います。
これからも、自分を成長させ、育ててくれたトライアスロンに恩返しの思いも込めて、微力ながらこれからも発展と繁栄に貢献できるように頑張っていきたいと思います。
他愛のないおしゃべりにお付き合いいただきありがとうございました。それでは皆さん! 良いお年を!
>>次回へ続く。
※1か月に1回程度不定期更新。
【コラムを最初から読む】
>>#001 オリンピアン関根明子さん、コラム始めます!~徒然なるままに~
>>#002【水泳から陸上へ――高校受験が転機に】
>>#003【トライアスロンとの運命的な出会いのきっかけとなった人】
>>#004【本格的にトライアスロンの道へ】
>>#005【シドニーオリンピックをどうやって決めたのか】
>>#006【先輩の背中を見て真っすぐ強くなった私】
>>#007【期間限定のはずが にしきのあきらさん の言葉に勢いで……!?】
>>#008【アテネに向けて再出発 カナダにトレーニング留学】
>>#009【理想の選手とコーチの関係性とは】
>>#010【アイアンマンに挑戦したのは、 自分の殻を打ち破るため】
>>#011【アテネオリンピック前に三宅義信さんから学んだ勝負哲学】
>>#012【あとを追いかけるばかりでは追いつけても追い越せない】
>>#013【アテネを経て改めて想う選手と指導者の距離感】
九州国際大学附属高等学校女子部陸上競技部。ダイハツ工業株式会社 陸上部に所属。1998年トライアスロンへ転向し、10年間プロトライアスリートとして活動。2008年に引退後、現在は3人の子育てをしながら、トライアスロンやランニングのコーチとして活動中。1975年生まれ、福岡県北九州市出身。
《主な成績》
1998年 ソウル国際女子駅伝 日本代表、横浜国際女子駅伝 近畿代表
2000年 シドニーオリンピック トライアスロン日本代表
2004年 アテネオリンピック トライアスロン 日本代表
2006年 アジア競技大会 (ドーハ) 銅メダル