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【アテネを経て改めて想う選手と指導者の距離感】関根明子#013

投稿日:2023年12月4日 更新日:


ルミナ編集部

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アテネオリンピック。男子代表の田山寛豪さんと。今は後進の指導や解説などで同じ舞台に立つ 写真=関根さん提供

関根明子の徒然なるままに#013

前回のコラム>>【あとを追いかけるばかりでは追いつけても追い越せない】#012

アテネ優勝ケイト・アレンに学んだ「最後まで何が起こるかわからない」

さて、ようやくアテネオリンピックのことが書けそうです(笑)。話がいつも縦横無尽。ごめんなさい。そしてこれからもこんな感じで、まさにタイトル通りの徒然なるままに。今回もお付き合いください。

アテネオリンピック本番のことはなぜかシドニーオリンピックほど強烈で詳細な印象としては残っていません。シドニーオリンピックのときは、言い訳も含め何だかんだ言いながらも結果に納得したという感じでしたが、アテネオリンピックに関しては、自己コントロールができず、力を出し切れなかった。20年近く経った今もそんな思いです。

Lumina関根明子コラム13

写真=関根さん提供

女子決勝は2004年8月25日、男子決勝は翌日26日にブリャグメーニオリンピックセンターで行われました。ブリャグメーニというのは地名で、ギリシャの南アッチカの郊外にあり、選手村からレース会場まで45㎞ほど離れていました。

そのような理由から本番の数日前にナショナルチームで会場近くのホテルへ移動しました。レースはブリャグメーニ市街を走り、スイムは最も有名なオセアニダビーチ(地中海)で行われました。

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アテネオリンピックスイム会場となったオセアニダビーチ ©FrankWechsel/ITU

初めてコースの下見をしたときのことです。車の中から崖の下をのぞき込むような形でスイム会場の海を見たのですが、ビーチのない水深の深そうな海の中に、浮き具もつけていない高齢者がいっぱい浮いていました。

浮いているというよりか、仰向けまたは座位でそこら辺を漂っている。その光景を見たとき「事件? 事故? 大丈夫なの?」と大変驚いたのですが、後で聞いたところによると、地元の人たちの海水浴だったそうです。

この辺では日常の光景なんですよね。本当に驚きました。小さな声でしか言えませんが、本気で水難事故だと思ったので……(笑)。浮き具をつけなくてもぷかぷか浮く程塩分濃度が高く、そのため浮力が高いということに納得しました。

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アテネオリンピックバイクコース ©FrankWechsel/ITU

そして、コースを含めギリシャの道路は確か大理石だったと思うのですが、何かの鉱物が入っており、とても滑りやすかったんですね。イメージでいうと道路の表面にろうそくのロウが薄く塗られていて、その上を走っているような、そんな感覚でした。

その対策として、当時使用していたアシックス社製のランニングシューズを、一つひとつ選手の足型や走りの特性に合わせてスペシャルシューズを作っていた三村仁司さん(※当時マラソンの高橋尚子選手、野口みずき選手や野球のイチロー選手のスペシャルシューズも作っていた方)が、着地しても滑らないよう、シューズの底のゴム部分にお米のもみ殻を入れてくださり、それがとても良く地面をとらえ、大変走りやすくなりました。

同じくレースウエアも日本人の技が光りました。肩ひもの幅や硬さ、縫い目やデザインが切り替わる場所が筋肉の動きを邪魔しないように、数センチ単位で調整していただくために、ウエア担当の方と何度も連絡を取り合い、試作を繰り返しました。この経験も大変良き思い出となっています。

アテネオリンピックトランジションエリア ©FrankWechsel/ITU

アテネ大会のコースの最大の特徴といえばバイクコースでしょう。1周8㎞×5周回のコース内にふたつの強烈な上り坂がありました。

ひとつ目はトランジションを出て1.5㎞手前から始まる傾斜17%の上り坂です。この坂を上り切った後、ほどなくほぼ同じ距離を同じ傾斜で下りきって勢いそのまますぐに左折し海岸線に出ました。

そしてトランジションへ戻る前にもうひとつ山場がありました。最初の上り坂ほどインパクトはありませんが1㎞ちょっと、傾斜でいえば10%ほどの上りをだらだらと上りました。

初めて試走したとき「後半疲労して足の筋力が弱ったら、もしかして上り切れないかもしれない」冗談ではありません。本気でそう思いました。

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アテネオリンピックバイクコース © Frank Wechsel / ITU |

実際に試走中、その坂17%の上り坂の途中でエンストして立ち往生している車を見ましたし、レース本番も入賞候補だった選手を含めた選手たちが、坂を上りきれず途中リタイアしました。

レース中そのリタイアしている選手たちを横目で見ながら「何としても最後まで上りきらなくては」と毎周大変緊張した記憶があります。

私のアテネオリンピックの結果は12位でした(当時の日本人最高位)。前回のシドニーオリンピックのときが17位でしたので、それを上回る記録でした。レースは大変ドラマチックな展開となりました。

女子の優勝はケイト・アレン選手(オーストリア)でした。スイムを私と1秒差(50人中44位)で上がり、バイクでは同じ集団になりました。ランをスタートしたときトップから3分遅れていましたが、それをものともせず、フィニッシゲートに向かう最後の直線に入る下りでトップを走っていたオーストラリアのロレッタ・ハロップ選手を交わし見事な逆転優勝しました。

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アテネオリンピック優勝のケイト・アレン(写真・中央)、2位のロレッタ・ハロップ(写真・左)、3位スーザン・ウィリアムズ。表彰台から ©Frank Wechsel / ITU |

すごい勢いでトランジションを飛び出して行ったあの光景が今でも忘れられません。「勝負はやってみないと分からない。最後まで何が起こるかわからない」私がレースの解説のときにいつも使う言葉ですが、それはこの経験から実感した言葉です。

アテネオリンピックが終わり、迷うことなく次の北京オリンピックも目指すことを決めました。年齢的にこの4年間が最後の挑戦になるだろうと思いました。

その最後のチャレンジに向けてやらなかったら悔いが残ることは何だと自分に問うたとき、やっぱり私は芯がぶれない自立した選手になりたい、自分を変えたいと強く思いました。そしてまた環境を変えることを決めました。そんな思いで決断しましたが、実は今でもときおり思います。あのときの選択は果たして正しかったのかどうか。

「私の我慢が足りなかったのではないか、環境を変えずに自立はできなかったのか、いや、やっぱり満を持したのか」真相は未だ分かりません。

レース後の慰労会 写真=関根さんご提供

多くの指導者と触れ合ったからこそ感じること

指導者と選手との距離については、現役時代も含めて現在まで、私の永遠の課題とでも言いましょうか。常に悩みの種です。4歳から水泳を始め、陸上長距離選手、トライアスリートと変化していき33歳で引退するまで実に30年近く、本当にたくさんの指導を受けてきました。

自分も指導する立場になり、子どもを育て、コーチングを学び、選手と指導者の両方の立場から客観的かつ冷静にその関係を見つめることができるようになった今思うことは「指導者と選手は成長や成熟により、その関係性を常に変化させていかなくてはならない」ということです。

きっかけはある新聞に載ったサッカー元日本代表監督の岡田武史さんのインタビュー記事でした。

「守破離」について書かれていたのですが(守破離とは……芸道・芸術における師弟関係の在り方のひとつ)、簡単に説明すると「守」は師や流派の教え型を忠実に守り、確実に身に着ける段階。

「破」は他の師や流派の教えについても考え、良いものを取り入れ心技を発展させる段階。「離」はひとつの流派から離れ独自の新しいものを生み出し確立させる段階で、修行における過程を示したものです。

サッカーでいうと、日本は主体性を育てるために「型にはめてはいけない」と最初は自由にやらせておいて(自由を与えておいて)16歳くらいから戦術という対応策を教えるが、サッカー大国スペインはその逆で、16歳までに原則を教えてあとは自由にさせる。あんなに自由奔放にしているスペインに型があるのかと驚いたというのです。

岡田監督の考えでは、何か縛りがあるからそれを破って自分の発想が出てくるのではないか? ということでした。

私に置き換えて考えてみました。振り返れば自分がこれまで受けてきた指導はほとんど「守」だったな、と思います。時代だったかもしれません。誤解を恐れずに書かせていただくとすれば、往々にして指導者から見て素直な選手=「守」から出ない選手ではないでしょうか。指導者も破らせないし離れさせないし、選手も破って出ていく力がない。

これを書きながらひとつ思い出したことがあります。2019年に次世代の男子選手(15歳から18歳)数人を引率して、オーストラリア遠征に行ったときのことです。

トライアスロンオーストラリアとの国際協定に基づく相互連携事業として行われた事業で、オーストラリア次世代選手と合同合宿を行った後、レースに出場するというものでした。

滞在中に日本人選手のスイムの練習を見ていたどこかのコーチに「とてもフオームがきれいだね!」と話しかけられました。

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オーストリアディベロップキャンプ 写真=関根さん提供

隣のコースで練習していた他国の選手たちと比べてみて、私も素直にそう思いました。マナーに関してもそうです。日本人選手は靴をきちっと揃え挨拶もきちんとしますが、海外選手たちは日本人から見ればある意味自由奔放に見えました。

では実際にレースではどうだったか。日本人選手たちは作戦を練りペース配分を事前に計算し、よく言えば堅実にレースをしますが、悪く見ればこじんまりとして勢いがありません。

逆に海外選手たちはフオームはきれいではないし、力任せで押して行くような感じでしたが、スタートしたら一気に集中し、シンプルにベストを尽くすだけ。そのように見えました。

レースを終えたひとりの男子選手に、自分のレースを見て何かアドバイスが欲しいと言われました。もしかしたら戦術的なアドバイスを期待したのかも知れませんが、私はそのとき「真面目過ぎるんだと思う。もっと野生が欲しい」と答えました。それが率直な感想でした。

海外選手と日本人選手の違いは何なのか。文化だと片付けてしまうには簡単すぎると思いました。

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オーストリアディベロップキャンプ 写真=関根さん提供

数年前までは世界選手権大会でもU23カテゴリー以下ではトップ10に入る選手が結構いましたが、年齢が上がりエリートになると全く通用しなくなっていきました。なんでなんだろう? それもずっと私の中で答えが出ていませんでした。

でも、最近ようやく答えが出つつあります。もしかしたら日本のコーチングは「破」と「離」がうまくいっていないのではないか。そこにたどり着きました。

ご縁があって選手を預かったら、将来しっかりと自己をコントロールし、セルフコーチングができるよう大切に育て、最終的には上手に卒業させていく。私の目標です。そんなコーチングができるよう努力していきたいと思います。

ノルウェーナショナルチームへコーチング研修でお世話になる機会がありました。そのとき監督のArid Tveitenさんに、選手を指導し始めたときの苦労や現在に至るまでの道のりなど、素晴らしいコーチング理論を聞かせていただきました。

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一番左が監督のAridTveiten氏。山梨でのノルウェーチーム暑熱対策合宿視察にて  写真=関根さん提供

その中で

「最初は一方的に与えるが、年齢を重ねるにつれて良きパートナーへ変化していくことが大切。だが、気をつけなくてはならないことは、選手の意見を聞き過ぎてただ選手のやりたいようにならないこと」

という言葉(メッセージ)が特に印象に残っており、それを皆さんに共有して今回のコラムを締めくくりたいと思います。

>>次回へ続く。
※1カ月に1~2回不定期更新

【コラムを最初から読む】
>>#001 オリンピアン関根明子さん、コラム始めます!~徒然なるままに~
>>#002【水泳から陸上へ――高校受験が転機に】
>>#003【トライアスロンとの運命的な出会いのきっかけとなった人】
>>#004【本格的にトライアスロンの道へ】
>>#005【シドニーオリンピックをどうやって決めたのか】
>>#006【先輩の背中を見て真っすぐ強くなった私】
>>#007【期間限定のはずが にしきのあきらさん の言葉に勢いで……!?】
>>#008【アテネに向けて再出発 カナダにトレーニング留学】
>>#009【理想の選手とコーチの関係性とは】
>>#010【アイアンマンに挑戦したのは、 自分の殻を打ち破るため】
>>#011【アテネオリンピック前に三宅義信さんから学んだ勝負哲学】
>>#012【あとを追いかけるばかりでは追いつけても追い越せない】

関根明子 Akiko Sekine
九州国際大学附属高等学校女子部陸上競技部。ダイハツ工業株式会社 陸上部に所属。1998年トライアスロンへ転向し、10年間プロトライアスリートとして活動。2008年に引退後、現在は3人の子育てをしながら、トライアスロンやランニングのコーチとして活動中。1975年生まれ、福岡県北九州市出身。
《主な成績》
1998年 ソウル国際女子駅伝 日本代表、横浜国際女子駅伝 近畿代表
2000年 シドニーオリンピック トライアスロン日本代表
2004年 アテネオリンピック トライアスロン 日本代表
2006年 アジア競技大会 (ドーハ) 銅メダル

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