関根明子の徒然なるままに#015
前回のコラム>>【年末にオススメ 思い出の棚卸】関根明子#014
久々の更新となってしまいました。昨年、生まれて初めて老いを実感し(苦笑)。筋肉が落ちてしまった、締まりのない自分の太ももを見て一念発起。ランニングを再開しました。
またトレーニングウエアが似合う身体になりたい! もうここまでくると切実な願いです(笑)。シューズも新調したしね。やるしかない! 頑張ります。前置きが長くなりましたが、皆さん今年もどうぞよろしくお願いいたします。
次は北京オリンピックに向けた日々へ
シドニーオリンピックが終わった後は脱力感がありトレーニングを再開するまで時間がかかってしまいましたが、アテネオリンピックの後はすぐに切り替えができ、4年後の北京オリンピックを目指しました。
新しいシーズンが開幕し2005年5月のワールドカップ石垣島大会で2度目の銅メダルを獲得し、順調なスタートを切りました。またひとつ目標を達成し、次の目標はその年の9月に日本で初開催となる世界選手権(愛知県蒲郡市)で8位に入賞することでした。
レースの直前まで北海道で1カ月間合宿を行い、準備万端で臨みましたが結果はDNFでした。ランの最終周でトップ10あたりを走っていましたが、ゴールの約500m手前で意識を失い倒れてしまい、救急車で運ばれて途中棄権となりました。
レース前の気温は27.5度、湿度は80%。真夏に比べたらそれほど暑くなかったのですが、潮気を含んだような重たい空気が身体のまとわりついて蒸し風呂のようだったと記憶しています。
搬送される救急車の中で、付き添ってくれた旦那に何度も「何位だった?」「もうレースは終わったのか?」と聞いた後に突然嘔吐し、少したって意識が戻り、倒れて棄権したことを知ってショックで泣いたことを覚えています。自分が情けなく、自己管理ができなかったと悔やみ自分を責めました。
思い返せば、何となくレース前から違和感がありました。レースの前日はほとんど眠れず、当日も何となく身体が重かった。もっとさかのぼると、北海道合宿のとき、いくら涼しいとはいえトレーニングをしてもなかなか汗をかかない。左右どちらかは忘れたのですがランニングのときに汗をかいても身体の正中線から見事に半分しかTシャツが濡れず、あれおかしいな? とは思ったこともありました(自律神経の反射というものらしいです)。
プレッシャーも相当あったと思います。
日本で初めて開催される世界選手権大会のホスト国のオリンピアンとして「日本人選手1位、8位入賞」は自分の中で至上命令のようになっており、周囲の期待も感じていました。オリンピック翌年で国内でも若手選手が育ってきており、負けるわけにはいかないという気負いもありました。
レース中の違和感はバイクの途中からでした。給水で摂ったドリンクが身体に吸収される感じが全くなく、どんどん胃に溜まっていく。でも暑いからいつも通りに飲む。ランに入ってスピードを上げようとしても足が上がらず、バイクのときに摂った給水がお腹の中で重く、走っていると胃のあたりからぽちゃぽちゃ音がする。
そうこうしているうちに真っすぐ走れなくなり、「あれ? 私蛇行してる」と思ったら、最後は意識を失い倒れてしまいました。
あとで振り返ってみれば、一番の原因は直前まで涼しい北海道でトレーニングを行ったため、暑熱順化の期間が足りなかったことだと思います。当時は今ほど科学的なトレーニングが常識ではなく、私も勉強不足だったし、情報も少なかった。
北海道合宿を終えて当時住んでいた東京へ戻ってきた後、本番の暑さになれるために夜はエアコンをつけて寝ないと決め、現地の蒲郡市に入ってからも、ホテルでは日中から極力エアコンは使用せずに過ごしました。間違った思い込みと自己流のやり方でどんどん体力を消耗し、自律神経も乱れたんだと思います。
シーズンインは特に気を付けるべき暑熱順化
2020東京オリンピック・パラリンピック大会の対策として、近年日本チームでも戦力的に暑熱対策を行い今ではたくさんの情報と方法が知れるようになりました。
私が勉強した範囲で少し紹介させていただきます。
暑熱順化には大体2週間ほどかかると言われています。5日目から7日目に発汗機能が高まるのでそれを計算して計画を立てることが大切です。
連戦等で寒いところから暑いところ(気温差のある場所へ移動)でレースをしなくてはならない場合、事前に少しウエアを着込んでトレーニングを行う。40度ほどのお風呂に30分間入るなど。
現地に入った後は、頬、手のひらや足の裏は動脈と静脈の交わるところで熱交換を行っているのでそこを冷やして、身体の中から熱を外に出します。
氷やアイスノンなどで冷やすと良いと思います。トレーニング後やレース後はすぐに体温を下げる。理由は体温が38度以下でないとリカバリーが始まらないからです。
アイスバスが用意できなければ、会場のスイムコース(海や川など)、水風呂やプールなどですぐにクールダウンするようにしましょう。気温が高ければ高いほどグリコーゲンを消耗するので、カーボローディングに関わらずレース3日ほど前から高糖質食を摂ると良いと思います。
蒲郡のレースの話に戻りますが、救急車で病院に運ばれた後、幸いにも大事に至らずその日の夜に退院しました。レース翌日には自宅に戻ってきたのですが、熱中症の後遺症がしばらく続きました。
当時の練習日誌を見ると、微熱が1カ月ほど続き、倦怠感、胃痛、動悸や不安感がしばらく続きました。とてもトレーニングを再開できる状況ではありませんでしたが、知り合いの薬剤師に相談して、ドーピング検査に引っかからずに体調を整えることのできる漢方薬を服用しながら、10日後に少しずつトレーニングを再開しました。
6週間後に日本選手権が控えていたからです。当時はスポンサー等の関係で欠場とするいう選択肢が私の中にありませんでした。大会の1週間前になりようやく体調が戻ってきた感覚があり、これだったらいけるかもしれないと手ごたえを得ました。
当時のトレーニング日誌を見返してみると、レース前日は全く眠れなかったと書いてありましたが、 それでもスイムを先頭集団であがり、バイクを無難に乗り越え、ランニング勝負へ持ち込むことができました。
年の功でしょうか。 勝負どころを逃さずレースができました。 ランの最終周で庭田清美選手のラストスパートについて行くことができず離されてしまいましたが、 第2位に入り表彰台に上がることができました。
得意のランで競り負けたことは とりあえず横に置いておき、 世界選手権後の状態から考えたら、 上出来でした。 驚き、歓喜、 いろいろな気持ちがありました。 でも、 乗り越えた……終わった……そんな気持ちが本心でした。
この年はトレーニング環境を変えてから、初戦でのメダル獲得、世界選手権でのアクシデント、日本選手権での準優勝と、アップダウンの激しいシーズンとなりました。
翌年2006年は、 第16回アジア大会競技大会(2006年ドーハ)が中東のカタールで開催されることになっており、トライアスロン競技が行われたのは、この年が初でした。 シドニーオリンピック同様、 誰もが初代表を目標に熾烈な代表争いが予想されました。
次号へ続く。
※1か月に1回程度不定期更新。
【コラムを最初から読む】
>>#001 オリンピアン関根明子さん、コラム始めます!~徒然なるままに~
>>#002【水泳から陸上へ――高校受験が転機に】
>>#003【トライアスロンとの運命的な出会いのきっかけとなった人】
>>#004【本格的にトライアスロンの道へ】
>>#005【シドニーオリンピックをどうやって決めたのか】
>>#006【先輩の背中を見て真っすぐ強くなった私】
>>#007【期間限定のはずが にしきのあきらさん の言葉に勢いで……!?】
>>#008【アテネに向けて再出発 カナダにトレーニング留学】
>>#009【理想の選手とコーチの関係性とは】
>>#010【アイアンマンに挑戦したのは、 自分の殻を打ち破るため】
>>#011【アテネオリンピック前に三宅義信さんから学んだ勝負哲学】
>>#012【あとを追いかけるばかりでは追いつけても追い越せない】
>>#013【アテネを経て改めて想う選手と指導者の距離感】
>>#014【年末にオススメ 思い出の棚卸】
>>#015【シーズン初戦に向けて プロでも気を付けるべき暑熱順化】
九州国際大学附属高等学校女子部陸上競技部。ダイハツ工業株式会社 陸上部に所属。1998年トライアスロンへ転向し、10年間プロトライアスリートとして活動。2008年に引退後、現在は3人の子育てをしながら、トライアスロンやランニングのコーチとして活動中。1975年生まれ、福岡県北九州市出身。
《主な成績》
1998年 ソウル国際女子駅伝 日本代表、横浜国際女子駅伝 近畿代表
2000年 シドニーオリンピック トライアスロン日本代表
2004年 アテネオリンピック トライアスロン 日本代表
2006年 アジア競技大会 (ドーハ) 銅メダル