関根明子の徒然なるままに#016
前回のコラム>>【シーズン初戦に向けて プロでも気を付けるべき暑熱順化】関根明子#015
今回は2006年のアジア競技大会で銅メダルを獲得したときのことを書かせていただきたいと思います。10年間の現役生活を振り返ったとき、もしかしたらオリンピックの代表になったときと同じかもしくはそれ以上に印象に残っている出来事です。金メダルではありませんでしたが、私の中では奇跡のメダルです。
オリンピック出場と同じくらいうれしいメダル
大きな失敗と教訓を得た2005年シーズンを終えて、翌年はいよいよ第15回アジア競技大会(2006年/ドーハ)が中東のカタール・ドーハで開催されることになっていました。
前回のコラムでも書きましたが、それまでトライアスロンはまだアジア大会の正式種目にはなっておらずドーハ大会から正式採用されることになっていました。
記念すべき第1回大会の代表になることは選手にとっては特別なことです。国内ではオリンピックに準ずる大会と位置付けされており、そこで金メダルを獲得することは大変名誉なことでした。
代表になるためにはその年の8月に中国で行われるアジア選手権に出場し、翌月9月の世界選手権ローザンヌ大会で日本人上位2位以内に入らなくてはなりませんでした。アジア大会は12月開催のため、この年は長く緊張の続いたシーズンとなりました。
初戦のワールドカップ石垣島大会は19位でした。スイムを最下位近くであがり、バイクも先頭集団からさらに3分半近く離されて、ランも伸びず19位。結局今となっても原因が分からない。
当時何を考えて何を感じながらレースしていたのか詳細は思い出せませんが、覚えているのはスタートした後あたふたした気持ちのまま腹が決まらず、最後まで自分をコントロールできないままレースが終わってしまったという感じです。
その約2カ月後に連戦したワールドカップマドリッド大会(スペイン)とワールドカップリチャーズベイ大会(南アフリカ)では32位と16位で、ともにスイムはほぼ最下位、バイクでもずるずると後退し、少しランで順位を上げるものの全くレースに参加できないという状態でした。
そのような状況でレースに出続けることは意味がないと判断し、1カ月後に予定していたカナダでのレースをキャンセルしました。開幕からそこまでの、前半の成績ではアジア選手権の代表に入ることが絶望的となり、同時にアジア大会の代表もなくなりました。
初めての大きな挫折 悔しくてやめたいと思った
トライアスロンを始めてから、初めての大きな挫折でした。それまでアジアでは絶対に負けないという自信とプライドがあったのでしょう。代表に入れなかった悔しさと自分に対する怒りと恥ずかしさがありました。
スタートラインにさえ立てないというショックから、初めて競技をやめたいと思いました。今すぐすべてを投げ出してどこかに逃げてしまいと思いました。10年間の現役生活の中で成績が振るわないという理由で辞めたいと弱音を吐いたのはこのときだけです。それだけショックで現実を受け止められなかったんだと思います。
職業選手としてスポンサーから契約金をいただき活動しているということは、アジア大会の代表になれても、なれなくても、迫っている後半戦に向け立て早急に立て直さなければなりませんでした。
どん底の状態から、なんとか気持ちを切り替えることに成功し、ひとりでトレーニングを行うにはモチベーションが低かったため、
アジア大会の代表選考レースに指定されていたアジア選手権大会(中国・甘粛省・嘉峪関市)に出場が決まっていた選手が故障により欠場になったので、自費参加という条件ですが出場しますか? という内容でした。
もちろん即答で出場したいという旨を伝えました。レースの行なわれる場所は中国の内陸でした。東西シルクロードの要衝のひとつで、標高が1500mほどあったので高地順化が必要でした。ちょうどよい時期に上田藍選手が長野県八千穂高原でアジア選手権に向けて高地トレーニングを行うと知り、一緒にトレーニングさせていただきました。初めて上田選手とトレーニングさせていただきましたが、まあ、よく食べ、よくトレーニングし、よく眠る! そして明るい!
その合宿に参加させていただいて大変勉強になったことがあります。リビングハイ・トレーニングロウ(就寝時などはトレーニングを行っている標高よりも更に高い場所で生活する)を行っていたことと休養日(回復時間)を丸1日設けず、たとえば午前中に負荷の高いトレーニングを行ったならば、その日の午後から翌日の午前中までを回復時間に当て、なるべく毎日トレーニングを積み重ねられるように強化を行っていたことです。
1年中世界を転戦しながら、その間にトレーニングも行わなければならないトライアスリートにとってとても有益な方法だと思います。このように時間のない中でできる限りの対策をしてアジア選手権に備えました
念願のアジア選手権、思わぬアクシデント
レースに向けて成田を出発して中国へ向かいました。確か24時間近く移動したと思います。現地のホテルには深夜に到着しました。本当に遠かった。
さっそく翌日の朝、コースの試走に行きました。スイム会場はダムのような人工の湖でした。試走を終えてホテルに戻りこれから昼食に行こうかというタイミングで、身体が熱いことに気が付きました。
体温を測ったところ39℃近くありました。同時に腹痛があったのでトイレに行くとお腹を下しました。その後その場で嘔吐しました。
これは大変だということで救急車で病院へ搬送されました。救急車で運ばれながら「なんなんだこれは。チャンスが巡ってきたと思い自費でここまで来たのに。最悪だ。遠征費30万円が……」と思いました。
運ばれた病院の診察室は日本のそれとは全く違い、過疎地の学校のような簡素でとても広い部屋でした。広い教室のような病室にベッドがいくつか置いてありました。
英語は通じませんでしたが、そのとき偶然にもナショナルチームとは別に個人的にチームと行動を共にしていた中国語の話せる女性がいて、搬送時からずっと付き添ってくださり通訳もしてくれました。
診察の結果、そのまま入院することになりました。原因は何かの菌に感染したのではないかということでしたが、食事からは考えられませんでした。深夜に到着し翌朝会場へ出発するまで、現地のものは何も口にしていなかったからです。考えられるのはスイム会場の水でした。試泳したときに少量、湖の飲んでしまったことが原因だと思いました。
入院したのがレースの3日前です。何か固形のものを食べると吐いてしまったので、入院してからずっと点滴を受けていました。この時点で自分を含めて誰もがレースに出場するのは不可能だと思っていたと思います。
入院中に何度かナショナルチームの遠征に帯同してくださったドクターに国際電話をしました。レースの出場可否を相談するというよりも、何が原因なのかが知りたかったからです。途中から会話が思わぬ方向へ行きました。
そのドクター曰く、
「明子ちゃん、もし原因が菌なら、菌って全部出ちゃったら大丈夫だからさ、レースに出場するか辞めるかはギリギリまで待ってみたら?」(先生)
「えー! ガーン(泣)」(私)
自分の中ではもう欠場とほぼ決めていたので、この人はこの状況の私になんてことを言うのだ! と思いました。しかしその後少し落ち着いてから旦那と話し合い、レース当日の朝まで判断を待つことにしました。
レース当日の早朝、とても良い天気でした。そして熱が下がっていました(再びガーン!)。急いで退院しホテルに戻り、体調をみるためにホテル周辺をランニングしました。3日間点滴のみで何も食べていなかったのと高熱の後だったので身体がフワフワしていましたが、身体が動かないという感じではありませんでした。でも、ゴールできる自信はありませんでした。
しかしドクターに言われた言葉が頭をよぎり、欠場するという決心がつきません。そのときはなぜ決断できないかよく分からなかったのですが、今になって分かるのは、時間が経ったときに自分に後悔はしないか? 欠場したという自分にオッケーが出せるかと考えたとき、もし後悔した場合、そのもやもやした気持ちをずっと抱え続けていくことは苦しいと思ったからです。
最終的にはやってみてだめなら自分が納得するだろうというところに落ち着き、出場することを決めました。レースの4時間くらい前だったと思います。そこから急いで準備をして会場へ向かいました。
運も味方して3位でフィニッシュ
ウォーミングアップをする体力がなかったため、少しウォーキングを行いスタートに備えました。選手がラインナップし順番にコールされスタートラインにつくまでの間も立って待つことができずに座り込んでいるような状態だったのですが、人間の底力というのか鍛冶場の馬鹿力なのか、いざスタートして泳ぎ出したら身体がよく動く、感覚も悪くない。
スイムをいつもの位置で上がり、バイクも集団内で協力体制がとれて順調にペースが上がり、ランニングに入る前に先頭集団に追い付き勝負へ。最後はハンガーノックになりましたが、心の中で「なんとかもってくれ!」と思いながら走り、無事に3位でゴールすることができました。次の世界選手権に出場するための条件だった、3位以内に入り世界ランキングのポイントを獲得することもクリアしました。
振り返って考えてみると、運が良かったなと思うことがいくつかあります。課題のあるスイムがウエットスーツ着用だったこと。私の後に続き、その後何人か日本チーム内で発熱する選手が出て、レース中に嘔吐してリタイアした選手がいた中で、私の発症がもし後数時間遅かったら、恐らくレースには出場は叶わなかったと思います。
それに加え、私が病院に搬送されたとき、偶然中国語の分かる方がチームに帯同しており、現地の医者と意思の疎通が問題なくできて良い治療を受けられたことなど。いくつもの奇跡とラッキーが重なりアジア大会の銅メダル獲得に向けて前進していきました。
次回は世界選手権で起こった出来事について書かせていただきたいと思います。
次号へ続く。
※1か月に1回程度不定期更新。
※写真はレースのイメージカットで関根さんご本人が映っていないこともあります。
【コラムを最初から読む】
>>#001 オリンピアン関根明子さん、コラム始めます!~徒然なるままに~
>>#002【水泳から陸上へ――高校受験が転機に】
>>#003【トライアスロンとの運命的な出会いのきっかけとなった人】
>>#004【本格的にトライアスロンの道へ】
>>#005【シドニーオリンピックをどうやって決めたのか】
>>#006【先輩の背中を見て真っすぐ強くなった私】
>>#007【期間限定のはずが にしきのあきらさん の言葉に勢いで……!?】
>>#008【アテネに向けて再出発 カナダにトレーニング留学】
>>#009【理想の選手とコーチの関係性とは】
>>#010【アイアンマンに挑戦したのは、 自分の殻を打ち破るため】
>>#011【アテネオリンピック前に三宅義信さんから学んだ勝負哲学】
>>#012【あとを追いかけるばかりでは追いつけても追い越せない】
>>#013【アテネを経て改めて想う選手と指導者の距離感】
>>#014【年末にオススメ 思い出の棚卸】
>>#015【シーズン初戦に向けて プロでも気を付けるべき暑熱順化】
九州国際大学附属高等学校女子部陸上競技部。ダイハツ工業株式会社 陸上部に所属。1998年トライアスロンへ転向し、10年間プロトライアスリートとして活動。2008年に引退後、現在は3人の子育てをしながら、トライアスロンやランニングのコーチとして活動中。1975年生まれ、福岡県北九州市出身。
《主な成績》
1998年 ソウル国際女子駅伝 日本代表、横浜国際女子駅伝 近畿代表
2000年 シドニーオリンピック トライアスロン日本代表
2004年 アテネオリンピック トライアスロン 日本代表
2006年 アジア競技大会 (ドーハ) 銅メダル