>関根明子の徒然なるままに#016
前回のコラム>>【2006年アジア選手権で奇跡的な銅メダルの裏側】
国内シーズン開幕に先駆けて
4月に入りましたね。ついこの間子どもたちにお年玉をあげたと思ったけど(苦笑)。
いよいよ国内でもシーズンが開幕します。世界に目を向けると、先日のWTCS開幕戦アブダビ大会が悪天候の予報でキャンセルになりました。キャンセルのニュースを受け取ったとき、こんなことがあるんだな、と驚きました。
選手としての立場から思うと、今年は各国パリオリンピックの代表争いが佳境を迎える中で、おそらく今までのシーズンのような「とりあえず第一戦目は身体おこしの位置づけとして、オフトレーニングの課題と成果を確認しよう」という感じではなく、初戦からエンジン全開でかなり緻密に計画と作戦を立てて、アブダビに乗り込んできていたと思います。
「えええええーッ! ホントに? ここまで来たのにー!」と私だったら叫ぶかもしれません(笑)。でも、やっぱり自然相手の競技ですから、それを大前提として考えるなら今回のようなことはいつだって起こりうることだと再確認しました。やっぱり安全が第一ですから、それは仕方のないことだと思います。
私は出場しなかったのですが、20年以上前のワールドカップ幕張大会のこと。台風接近の影響で海がひどく荒れ、選手が上陸してくるポンツーンが破損してしまったため、海から選手が上がってくる際に使用するはしごを上から下ろしたのですが、そのはしごが波で揺れて固定が出来なかったため、最後は大会関係者が手ではしごをおさえて、何とか競技を行ったと聞いたことがあります。
引退後はレースの解説や会場MC をさせていただくこともあり、運営側の視点からレースを見ることが多いのですが、毎回計り知れない苦労とドラマがあるなぁと感じます。
奇跡の3位アジア選手権から世界選手権へ
さて、アジア選手権でのアクシデントを乗り切り(>>前回コラム参照)、3週間後に行われる最終選考会の世界選手権(2006スイス・ローザンヌ)へ出場する権利を得ることができました。中国から戻り、再び長野県黒姫高原で仲間と合宿を行い、しっかりと準備しました。体調もまずまず。久々に手ごたえを感じていました。
ローザンヌは大変美しい街でした。スイム会場となったレマン湖はスイスとフランスにまたがる中央ヨーロッパ最大の三日月形の湖で、スイムスタート地点の湖岸から対岸のフランスが見えました。
有名な白いモンブランの山々や、あの有名なエビアン水の湧いているエビアンの町が見え、「おー、日本で売っているエビアン水はあそこからやってくるんだ!」と感動しました。
バイクコースは市街地を走る周回コースでした。ローザンヌには美しい大聖堂や美術館、高級住宅地が点在する旧市街地の高台と、レマン湖畔に高級ホテルが立ち並ぶ地区の間には高低差があり、坂の街として知られているところで、大変ハードなコースでした。
ウエットスーツ着用のスイムと長い上りのあるバイクコース、フラットなランコースは私の得意とするコースでした。気温も高くないし、これは私に追い風が吹いているなと感じていました。日本からは6名の選手がエントリーしており、この大会で日本人上位2名がアジア大会代表の有力候補となりました。
そのレースのスイムで、まず全体の8位、日本人トップでスイムを上がってきたのは庭田清美選手でした。私は先頭から約1分遅れでフィニッシュし、そのあとすぐ後ろに上田藍選手が続いていました。
順調なスタートでした。しかし、バイクの中盤に差し掛かった頃、得意なはずの長い上り坂で集団から遅れてしまいました。
立ちこぎぎをしているときに、バイクから返ってくる反発と自分の踏み込むタイミングが合わないことでリズムに乗り切れず、周回を重ねるごとに全身が力んで余計な力を使い、バイクの集団から単独でちぎれてしまいました。レース中に集団から遅れてしまったのは、そのときが初めてでした。
そこで、私は大きな失敗をしたことに気が付きました。それは、レースの2週間前にバイクを新しく変えたことです。どうしても世界選手権で結果を出したいという欲が出て、今までやったことのないことをやりました。その新調したバイクにあまり乗り込まないまま本番で使用しました。
集団から遅れて単独になった後、後ろから追い付いてきた次の集団にもついていくことができず、そのままズルズルと後退していきました。
私が遅れた後、上田選手を含むその集団は順調に前の集団を追いましたが、庭田選手を含む先頭集団はそれよりもさらにペースが早く、少人数で逃げる理想的な展開になっていました。本当にあのときの庭田選手は強かった。
トップ選手がゾーンに没入したときに感じること
トレーニングと経験を積み選手として成熟してくると、研ぎ澄まされ勘がさえてきます。
たとえばレース会場で、ライバルとすれ違い様に一瞬挨拶を交わしただけでも、その選手の調子や状態が何となく分かったりすることがあります。
レース中にお互い競っているときでも、直接相手の表情を見なくても、横に並んだり後ろについていたり近くにいるだけで「まだ余裕がありそうだな」とか、「呼吸は荒れていないけど余裕はなさそうだな」など肌感覚のようなもので分かるときがあります。
そのような感覚からいえば、あのときの庭田選手は本当に強くたくましく世界のトップと互角にレースをしていました。バイクの途中、定点ですれ違うたびに、まだレースの途中なのに今日は勝てないと諦めさせるくらいのオーラがありました。
私はランニングに入る時点で上田選手を含む第2集団からすでに3分半近く遅れており、その状況は沿道のスタッフから伝えられる情報でも分かっていました。
さすがにここまで遅れたら逆転は難しいし、日本人上位2名という選考基準を突破することは厳しいと、走りながら半ば諦めの気持ちがありました。選考会という一面だけで考えれば、もうランで頑張っても仕方がないという気持ちがありました。
しかし一方で、ここまで来てレースを途中で投げ出すようなことはしてはならないという気持ちと、そんな自分を許さないという気持ちと最後まで葛藤しながら走りました。結果は29位でした。ランラップだけで見れば、もしあのときバイクで集団から遅れなければ総合13位でした。
トライアスロンというのはつくづく難しい競技だなと思います。持久系の競技でありながら非常にゲーム性が高いと感じます。ある選手は、スイムの勝負所の苦しいところを15秒我慢できるかどうかで、その後の結果(リザルト)が大きく変わると言います。
2007年世界選手権ハンブルク大会のことでした。バイクで前の集団を追っていてあと10秒くらいにまで差を詰めていました。コースの直線に入るともう手が届きどうなところまで来ていたのに、そこで集団全体が安心したのか、そこからまた一気に離されてしまったことがありました。
勝負所を誤ったり、一瞬の判断ミスによりより、集団の大きさによっては順位が10位も20位も変わることがあります。トライアスロンは特に年齢と経験を重ねたベテランが若くて気力も体力もある選手を負かすことがあります。本当に魅力的でタフなスポーツです。
ゴール後、落胆しているところに思わぬ情報が入りました。先頭集団でレースをしていた庭田選手がバイクの途中でアクシデントがあり途中棄権したということでした。最終的に日本人最高位は12位の上田選手、次にゴールした私が日本人上位2番目となり、代表選考委員会を経て理事会で承認され、第一回アジア競技大会ドーハの日本代表になりました。
こんなことがあるのでしょうか。シーズン初めは代表選考会に出場する権利さえなかった状況だったのに……。葛藤はしながらもレースを投げ出さなくて本当に良かったと思いました。
たくさんの方々の支えと運と奇跡がつながったと思いました。私が代表になって良いのかと心苦しく思った時期もありましたが、最終的にはいただいたチャンスに感謝し、選んでくださった方々の期待に応え、変わらず精一杯ベストを尽くすことしかないんだと思いました。アジア大会の金メダル獲得に向け、あと3カ月やれることは何でもやろうと決めました。
次号へ続く。
※1カ月に1回程度不定期更新。
【コラムを最初から読む】
>>#001 オリンピアン関根明子さん、コラム始めます!~徒然なるままに~
>>#002【水泳から陸上へ――高校受験が転機に】
>>#003【トライアスロンとの運命的な出会いのきっかけとなった人】
>>#004【本格的にトライアスロンの道へ】
>>#005【シドニーオリンピックをどうやって決めたのか】
>>#006【先輩の背中を見て真っすぐ強くなった私】
>>#007【期間限定のはずが にしきのあきらさん の言葉に勢いで……!?】
>>#008【アテネに向けて再出発 カナダにトレーニング留学】
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>>#016【2006年アジア選手権で奇跡的な銅メダルの裏側】
九州国際大学附属高等学校女子部陸上競技部。ダイハツ工業株式会社 陸上部に所属。1998年トライアスロンへ転向し、10年間プロトライアスリートとして活動。2008年に引退後、現在は3人の子育てをしながら、トライアスロンやランニングのコーチとして活動中。1975年生まれ、福岡県北九州市出身。
《主な成績》
1998年 ソウル国際女子駅伝 日本代表、横浜国際女子駅伝 近畿代表
2000年 シドニーオリンピック トライアスロン日本代表
2004年 アテネオリンピック トライアスロン 日本代表
2006年 アジア競技大会 (ドーハ) 銅メダル