関根明子の徒然なるままに#019
前回のコラム>>【アジア選手権に思うこと】
パリオリンピック代表決定
パリオリンピックの開催がいよいよ来月に迫り、先日、パリオリンピック日本代表が決定しました。女子は高橋侑子選手。男子はニナー賢治選手と小田倉真選手です。
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今回選ばれた3人の選手には取材でお世話になることが多く、そこから感じることは3選手とも競技成績だけでなく、人間性にも優れているということです。
トライアスロンに対する真摯な姿勢や取材時に受け答えする誠実な態度など、成績の振るわないときも栄光のときも諦めず進み続けようとする姿は、これからの若い選手たちに大きな影響を与えてきたのではないのでしょうか。
今回残念ながら男女混合リレーの出場は叶いませんでしたが、現実をしっかりと受け止めて、因果を分析し同じく前進するしかありません。
先日、写真を整理していたときのこと。2007年の日本トライアスロン選手権の写真(トップ画像)が出てきました。そのときの優勝者は北京・ロンドン・リオと3大会連続オリンピックに出場した上田藍選手でした。2位には私が入り、3位はその翌年に開催された北京オリンピックで日本人初の5位入賞を果たすことになる井出樹里選手でした。
他にもこの写真(トップ画像)には今回パリオリンピックの代表となり2大会連続出場となった高校生時代の高橋侑子選手や、第1回ユースオリンピックで優勝し、リオデジャネイロオリンピックの代表にもなった佐藤優香選手、何度も世界選手権の代表になり2021年の日本選手権で2位にも入った蔵本葵選手も写っています。
このレースで佐藤選手は高校生ながら10位に入っており、蔵本葵選手は12位、高橋選手は15位に入りました。その後、佐藤選手は約10年の月日を経て2016年のリオデジャネイロオリンピックの代表となり、高橋選手は13年後に東京オリンピックで初の代表となりました。
このころは次々にとは言えないものの、上田選手や井出選手をはじめ若手と言われていた選手が順調に経験と実績と積んで中堅になり、その次の世代も混在し大変熱気のあるレースとなりました。
この頃の日本選手権は以上のような選手たちが年に一回一堂に顔を合わせ、互いに刺激を与えあっていました。
振り返れば2000年前後、初めてトライアスロンがシドニーオリンピックに採用されることになり、トライアスロン界が大変盛り上がっていたころ。
第5回でも書きましたが、その当時の(2004年4月)の国別ランキングでは日本の女子は第3位でした。世界ランキング50位以内に5人もの選手がランクインしていました。
2004年のアテネオリンピックの年の直前に行われたポルトガルの世界選手権では、トップ10に日本人選手がふたり入りました。
そして、その後国内では競争力が増し、その勢いのまま2008年の北京オリンピックでは井出樹里選手が5位に入賞、庭田清美選手が9位に入り、オリンピックで日本人選手がトップ10にふたりも入る快挙を達成しました。
しかし残念ながら、現在日本の女子は緩やかに低迷しています。
技術や思いを伝承する大切さ
ここからは私の推測になりますが、ひとつの原因として、世代間で引き継がれるものがなくなってしまったことがあるように思います。女子に関して言えば現在多くの選手が個別(個人)でトレーニングしています。
海外に環境を求め単独で渡り国際チームでトレーニングをしている選手もいます。2000年前後に盛んに行われていた、ライバル同士でも垣根を越えて一緒にトレーニングしたり、合同合宿を行ったりというような交流が少なくなってしまったように思います。先輩やライバルから刺激を受けたり、学ぶ機会が少なくなってしまったということです。
その昔、私がトライアスロンに転向した1998年頃から2000年前後あたりまでだったでしょうか、年末年始などにナショナルチーム合宿をしたり、男女一緒にトレーニングする機会を得ていました。
当時トライアスロンを始めたばかりの私は自分よりも経験があり国際レースの経験も豊かなトップ選手たちから、そこでたくさんのことを学びました。トレーニングに対する姿勢、考え方、何をどれくらい食べ、どんな用具を使い、練習でどれくらいのタイムで泳ぎ走るのか。
当時女子の国内トップは細谷はるな選手(ニデック所属/世界ランキング14位/2000年4月)でした。彼女とトレーニングさせていただくことで、「練習でこれくらいのタイムで泳げれば第一集団で上がれる可能性があるんだな」とか食事の内容や摂取しているサプリメントの種類、給水で使っているドリンクなどすべてが勉強になるわけです。
私が陸上選手からトライアスロンに転向した当初を振り返ると、とても恵まれた環境でトレーニングしていたんだなと思うことがあります。
1998年にシドニーオリンピック出場を目指して、東京都西東京の飯島健二郎コーチのもとでトレーニングを開始し始めた頃、同じくシドニーオリンピック出場を目標に練習環境を求め、飯島コーチの指導を受けるために宮崎県から上京したふたりの姉妹がいました。志垣千秋さんとめぐみさんです。
彼女たちと私は同じ福岡県出身で、 高校時代から顔見知りでした。 高校卒業後はそれぞれ実業団チームへ進み、私より数年前にトライアスロンへ転向していためぐみさんの方は1998年の世界ロングデイスタンストライアスロン選手権佐渡大会で日本人で初めて3位に入りメダルを獲得した人です。
彼女たちと日々一緒にトレーニングすることで刺激を受け、すでにトライアスリートとして先輩だった彼女たちの背中を見ながら、追い付け追い越せでやっていました。
昨年のオリンピックテストイベントで優勝し2023年の世界選手権でも優勝した、イギリスのべス・ポッター選手もトライアスロンを始めた頃にロンドン・リオ大会の男子メダリストであるブラウンリー兄弟と一緒にトレーニングするために彼らの拠点へ移っています。
東京オリンピックで銀メダルを獲得したイギリスのジョージア・テイラー・ブラウン選手も若いころ、当時すでに世界のトップを走っていたジェシカ・リアマンス選手と寝食を共にしながらトレーニングしています。
引退して随分だった頃です。 レース会場で蔵本葵さんにお会いしました。私は引退前のある一時期、彼女の所属していた東京ヴェルディトライアスロンチームで一緒にトレーニングをさせていただいていたのですが、 その彼女に「私がオリンピックを目指せたのは、アッコさんと一緒にトレーニングしてオリンピックが身近に感じられたからです」と言っていだき大変驚きました。
自分の思いもよらないところでそのような影響を与えることができていたことを大変うれしく思いましたし、そんな素振りが全くなかったので(笑)本当に驚きました。
身近にロールモデルがいるかどうか。どのような環境に身を置くのかも大切ですが、誰とトレーニングするのかももしかしたらそれ以上に大切な事かもしれません。
上達するための初めの一歩は徹底的にまねることから始まります。昔はよかったと全てを肯定する気持ちはありませんが、ここまでに何か忘れてきたものはないか? 古いと言われる価値を新しい視点でとらえてみることも大切だと思います。
選手はトライブル回避をする力も必要
ここからは前回の続き2006年に出場した「アジア競技大会ドーハ」について書かせていただきたいと思います。
現地で順調に調整を続け、いよいよ明日が本番という前日の夜でした。すべて準備を終えて後は寝るだけという段階になったとき、ある不安が出てきました。
レース当日の天気予報は降水確率が微妙でした。もし雨が降った場合、レースで使う予定だったホイールと、すでにつけていたブレーキシューの相性があまり良くなかったので、ブレーキの利きが悪くなってしまいます。
時間が経つにつれてその選択に迷いが出てきました。ここまで来てそのような初歩的なミスでトラブルを起こしてしまい、大事なレースで失敗するわけにはいきません。
迷って、迷って、迷った結果、村外に滞在していたメカニックに電話で相談し、レース当日会場で少し早めに待ち合わせをしてその場で交換することになりました。
当日の朝です。アクシデントが起きました。約束した待ち合わせ場所でメカニックと会えなかったのです。待てど待てど時間ばかりが過ぎていきました。
半分パニックになりそうになり、焦りから余裕を失い、どうしたらいいのか分かりません。それ以上待つとアップの時間がなくなってしまうというところで、もう駄目だと思い会場内のオフィシャルメカニックのところへ行こうと思いました。
はやる気持ちでバイクを押しながら道を急ぐのですが……まあ、大変(笑)。会場内はいつもの様子と違い、要人が通行するために大変警備が厳しくなっており一方通行ばかりでなかなか目的地にたどり着けません。
そのときの私は相当あわてていたのでしょう。警備員と何やらごちゃごちゃ話している私を見かねたのか、一人の男性が話しかけてくれました。その男性は当時韓国チームのコーチをしていたヤン・ルーラさん(2000年シドニーオリンピック男子トライアスロン銅メダル/チェコ)でした。
私が訳を話しメカニックへ行きたいと伝えたところ、彼は「私が道案内をしよう」と言ってくれてメカニックまで案内してくれました。そしてそこで私に代わって用件を伝えてくれて、作業が終わるまで見届けてくれました。今思いだしても本当に感謝の気持ちです。
作業が終わり安心したのも束の間。恐れていたとおりウオーミングアップの時間が少なくなってしまいました。ここで臨機応変に時間内でできることをやればよかったのですが、焦った気持ちでは冷静な判断ができず、いつもどおりのウオーミングアップを行うことに執着してしまい、その結果、さらにどんどん時間が押してしまいました。
気持ちの切り替えができないまま、自己コントロールができていない状態でスタートラインに立つことになりました。
※1カ月に1回程度不定期更新。
【コラムを最初から読む】
>>#001 オリンピアン関根明子さん、コラム始めます!~徒然なるままに~
>>#002【水泳から陸上へ――高校受験が転機に】
>>#003【トライアスロンとの運命的な出会いのきっかけとなった人】
>>#004【本格的にトライアスロンの道へ】
>>#005【シドニーオリンピックをどうやって決めたのか】
>>#006【先輩の背中を見て真っすぐ強くなった私】
>>#007【期間限定のはずが にしきのあきらさん の言葉に勢いで……!?】
>>#008【アテネに向けて再出発 カナダにトレーニング留学】
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>>#016【2006年アジア選手権で奇跡的な銅メダルの裏側】
>>#017【2006年世界選手権 諦めず最後まで走り切った結果…】
>>#018【アジア選手権に思うこと】
九州国際大学附属高等学校女子部陸上競技部。ダイハツ工業株式会社 陸上部に所属。1998年トライアスロンへ転向し、10年間プロトライアスリートとして活動。2008年に引退後、現在は3人の子育てをしながら、トライアスロンやランニングのコーチとして活動中。1975年生まれ、福岡県北九州市出身。
《主な成績》
1998年 ソウル国際女子駅伝 日本代表、横浜国際女子駅伝 近畿代表
2000年 シドニーオリンピック トライアスロン日本代表
2004年 アテネオリンピック トライアスロン 日本代表
2006年 アジア競技大会 (ドーハ) 銅メダル