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関根明子の思考の断片 —Log Notes— Vol.1

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ルミナ編集部

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2003年に出場したアイアンマン・マレーシア。当時も指導者不在だったが、良き理解で良き相談相手もある、トレーニングパートナーに支えられていた

>>関根明子の思考の断片 —Log Notes—

2000年シドニー、2004年アテネオリンピック日本代表の関根明子さんのコラム「徒然なるままに」をリニューアル。関根さんの想いをよりストレートに、エッセイとしてお送りします。

スポーツ選手の「卒業」という言葉の意味

先日あるネットニュースが偶然目にとまった。陸上女子長距離選手(東京オリンピック代表)が所属先チームを退部し新たな環境でチャレンジするという。本人のコメントの中に卒業という表現があった。

その言葉が少し私の胸をざわつかせたが、次の瞬間、長年自分を責めてきたことから解放され、自分を許せた気がした。卒業は悪いことではないと知った。

自分の役時代を振り返り一番の失敗、後悔は何か? と聞かれたら迷わず、指導者のいない時期が長かったことだと答える。

トライアスリートだった10年間の中で、指導者がいたのは陸上長距離選手からトライアスロンへ転向した最初の2年間とシドニーオリンピック後にトレーニング留学でカナダに滞在していた1年間などを含め、約半数の年月だった。

種目によっては一定期間指導をお願いした人もいたし、トレーニングパートナーと活動した時期もあった。でも競技生活の後半は、基本的にずっとひとりだった。

現在は指導者を持たずに活動する選手は増えている。自分でトレーニングメニューを作成することからはじまり、練習環境を整え、レーススケジュールや合宿計画まで、すべてを自己マネージメントしながら活動している選手は多い。

しかし2000年代前半頃は、男女を通じ、他競技も含めて、まだそのような選択する選手はあまりいなかった。なぜ、わざわざその様な大変な環境を選んだのかと言えば、強烈に強く、自立した選手になりたいと望んだからだった。

当時、その目標を叶えたいと望んだ場合、独立しか思いつかなかった。もちろん不安や迷いはあったし、厳しい道だとわかってはいたが、良いことも悪いことも全てが自己責任だ、ということが心地良かった。

1998年の夏、トライアスロンへ転向した。幼少期から10年続けた水泳も、勉強も、高校から始めた陸上長距離も、いつも一歩何かが足りなかった。

常に周りの評価は高かったが、その期待に応えられず、何をやっても中途半端だった。そんな自分が嫌いだった。競技を転向した理由はいくつかあったが、ひとつには、トライアスロンを競技生活の集大成にして、スポーツ選手として完全燃焼したかった。自他ともに力を出し切ったと認められたかった。必然的に競技を転向した時点で目標がオリンピック出場になった。

2006年第1回アジア競技大会ドーハ・銅メダル。このときもコーチはいなかった

競技を転向して8カ月後に行われたアジアトライアスロン選手権ソクチョウ大会でいきなり優勝し、アジアチャンピオンになった。そしてその4カ月後、カナダのバンクーバーで行われた世界選手権でも13位に入り当時の日本人過去最高順位を更新した。その年の日本ランキングで1位になった。

毎日ひたすらコーチに与えられる練習メニューをがむしゃらにこなし、合宿とレースを繰り返した。なぜ今このようなメニューを行っているのか、この練習にどんな意味があるのかなど考える事はなかった。

トライアスロンの楽しさや醍醐味を全く知らぬまま、ノンストップで急な階段を駆けあがり、気がつけば強くなっていた。私をオリンピック代表にするために、たくさんの方々が一丸となって力を注いでくれた。

デビューした翌年はもうシドニーオリンピックだった。子どものころからずっと憧れ夢見た、オリンピック代表が現実味を帯び、すぐ手が届きそうな位置にまで近づいていた。いよいよ大詰めだという頃に、少し息が切れ始めていた。いつも肩が凝り、集中力にかけ、憂鬱だった。

「疲れが溜まっているので少し休みたい」という一言が、指導者にどうしても言えなかった。

自分の感覚に自信がなかったし、目標が大きかった分、少しの弱音も許されない気がしていた。ひとたび口に出してしまえば緊張の糸が切れてしまい、必死に掴んでいた運が逃げて行ってしまうような気がした。

何よりも自分が否定され、怒られることが怖かった。次第に指導者に対する不満が不信感に変わり、反抗的な態度となって端々に表あらわれた。

当時はまだ選手の自立だとか、アスリートセンタードという言葉は一般的に浸透していなかったし、指導者と選手の関係は常に一方通行で、指導者は圧倒的に強い立場にいた。

そして常に正しかった。異なる意見を言えば反抗ととられかねず、「あなたはどうしたいの? 今どう考えているの?」と聞かれることもなかった。

さかのぼれば、両親の私に対する育て方も常に一方的だったし、さらに言えば学校で受けた教育も似たようなものだった。

指導者がいなくても、日本選手権でも活躍し続けた

そういう時代だったと言えばそれに尽きるが、両親も学校の先生も皆それが当たり前の環境で育ってきたわけだから仕方がない。受け取っていないものは、与えることが出来るわけもなく、誰のせいでもなかったと、引退して母になり、子育ての日々の中で自然と納得していった。

危うく我が子に躾という大義名分のもと、正義を振りかざして、同じような教育をするところだったが、私は幸いにもこれまで選手時代に感じていた違和感や疑問を、指導者の勉強を始めた時に、コーチング学を通じて、これまでの価値観や信念を手放すことに成功した。

自分の言動を客観的にみる視点を獲得できたことにより、子育ての方針においては、どうやら最悪の事態を回避できそうである。実際に今そのような教育が本当にできているかは別問題だが。

指導者をもたず自立した選手に

2000年のシドニーオリンピックを惨敗で終えた後、次のアテネオリンピックを目指すと決めたとき、目標がメダル獲得と自立した選手になることだった。そうなると問題が出てきた。

引き続き同じ環境で、ただ与えられるものを消化していく関係性から脱却する努力をしながら、環境整備を行うか、それとも思い切ってチームを離れて独立し、すべての責任を自分で負う覚悟で自立した選手を目指すのか。

今回の写真の中で唯一コーチがいたカナダ留学時代

考えた末に出した結論は、後者だった。これまで長い間で培われてきたスポーツ界の慣習を、選手として活動できる限られた時間の中から、自分が変化を起こす自信がなかったし、そこに力を注ぐ時間とエネルギーがなかった。

若気の至りもあった。情熱とたくさんの愛情を注いで、オリンピックにまで導いてくれた指導者に対し、感謝の気持ちも十分なお礼も言わないまま、半ば飛びだすような形でチームを離れたが、新しい環境で苦戦した。

引っ越して最初の数カ月は、オリンピック一連の疲労からオーバートレーニング症候群になり、しばらく微熱が続き、朝布団から起き上がれない日々が続いた。

新しい環境でもたくさんの方々力を貸してくれたが、未熟だったゆえそれらを力に変えることが出来なかった。計画も見通しも甘く、全てにおいて実力不足だった。

陸上の実業団時代からを含めて、トレーニング理論やコンディショニングに関する知識には多少の自信があったが、思った通りに行かなかったし、指導者から離れてひとりになってみると、想像していなかった問題が出てきた。

まず第一にメンタルが安定しなかった。知識と経験があり、常に全体を把握し客観的な視点で分析やアドバイスしてくれる人がそばにいなくなったことで、現在地の把握が難しくなり、たびたび迷走した。

それでもワールドカップの表彰台に上がることもあったし、うまくいったこともあったが、好調は長続きせず調子の波が大きかった。

科学的根拠に基づくトレーニング知識などの面でも力不足面があった。トレーニングパートナーの男子選手と話し合いながら活動していたが、感覚的なものを優先しすぎて、エビデンスや指標が曖昧だったため、一体何のどれに効果があったのか、原因を追究し検証することがなかったため、行き当たりばったりだった。

日本選手権の表彰台

ひとりでは分からない実力低下に衝撃を受ける

そうこうしているうちに、アッという間に3年が過ぎ、またオリンピックが巡ってきた。

トレーニングはそれなりに積んでいたが、なかなか調子が上がらなかった。年末年始に石垣島で行われたナショナルチーム合宿に参加したが、そこで久々に皆とトレーニングを行いようやく不調の原因が分かった。

調子が悪いのではなく、自分の力が落ちているという現実だった。気が付かない間に練習の方向性が間違っていたのかもしれないし、強度が足りていなかったのかもしれない。衝撃を受けた。

3種目それぞれの専門家のところへ練習に行き刺激をもらうことはあったが、これまで3種目揃ってレベルの高い選手と一緒に練習する機会がなく、複合種目の高いレベルでの練習ができていなかったことが原因だった。

オリンピック最終予選まで4カ月しかなかった。この短期間で再び強化し、調子を上げて行くことは不可能に思えた。そこで素直に自分の力不足を認め、シドニーオリンピック前に指導を受けていた元の指導者に頭を下げ、チームに戻していただいた。

一番の変化はやはり精神的な安定だった。元の主従関係に戻ったが、迷いや不安がなくなったことは何より大きなプラスだった。自信を持って日々のトレーニングをこなし、オリンピック最終予選の世界選手権で10位に滑り込んだ。晴れて2度目のオリンピック代表となった。

でもその後、私は再び息苦しくなりチームを離れた。戻って最初の頃は順調な関係を保っていたが、緊張感が薄れ馴染んで行くにつれ、次第にチームを離れる前と同じ状態になっていった。指導者と適切な距離を保ち、信頼関係を結ぶことが依然できなかった。依存したい心と自立したい心がぶつかって葛藤した。

結果的に2度もチームを離れ、同じことを繰り返し、お世話になった方々に大変な不義理をした。自分でもなぜこんなにも自立にこだわり、その衝動が抑えられないのかが分からなかった。そんな自分に戸惑ってはいたが、2008年の北京オリンピックに向け、最後は自分に正直に、自分の納得のいく形でやり切りたかった。

自己マネージメントしながら、アイアンマンにも挑戦

自分ですべての責任を追うということ

再び独立した後は、どんな結果になろうと腹をくくっていたので、全く後悔なかったが、時折ふと心のどこかでこう思うことがあった。「トライアスロンを始めた頃のまだ何も知らず、何も疑わなかった時のままで今もいることができたら、どんなに楽だっただろうか」

今でも考えることがある。「もし当時、独立を選ばずチームに残るという選択をしていたら、北京オリンピックの代表になり、あわよくば入賞していただろうか」

今となっては、それは誰にも分からないが、でもひとつだけ確かなことがある。あのタイミングで独立の道を選ばなかったら、間違いなく引退して指導者を志してはいなかっただろう。

あの頃、自立心の芽生えかけていた私に寄り添い、否定することなく、選手として次の段階へ導いてくれる環境に出会えていたらと、今でも思うときがある。

私は一体どうすればよかったのか。

迷った日々や無念、後悔と少しの成功は、確実に今の私を指導者へと駆り立てる原動力となっている。あの日下した決断が、日々自分の本質と真剣に向き合った経験が「人の可能性や能力を最大限に伸ばす」ことへの興味と探求に向かわせている。

あのときの選択が間違いなく卒業だったと、これから自信をもって言えるようになりたい。

これからは指導者として、当時自分が切望した環境を少しずつ整えながら、私のもとから元気に卒業していく選手をたくさん育てていきたい。

最後に……

でも結局、自立するとは一体なんぞや(笑)? あれだけこだわった自立だが、果たしていま私はかつて理想とした姿になっているだろうか。

※1カ月に1回程度不定期更新

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関根明子 Akiko Sekine
九州国際大学附属高等学校女子部陸上競技部。ダイハツ工業株式会社 陸上部に所属。1998年トライアスロンへ転向し、10年間プロトライアスリートとして活動。2008年に引退後、現在は3人の子育てをしながら、トライアスロンやランニングのコーチとして活動中。1975年生まれ、福岡県北九州市出身。
関根さんがメインコーチを務める、埼玉県さいたま市にある埼玉スタジアム2002公園を拠点に活動するランニングとトライアスロンのクラブ
SAI ATHLETE CLUB SAITAMA《主な成績》
1998年 ソウル国際女子駅伝 日本代表、横浜国際女子駅伝 近畿代表
2000年 シドニーオリンピック トライアスロン日本代表
2004年 アテネオリンピック トライアスロン 日本代表
2006年 アジア競技大会 (ドーハ)

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