関根明子の徒然なるままに#025
前回のコラム>>【脳と身体のつながりについて考えるきっかけになったこと】
働く母にとって素晴らしいロールモデル
少し前の話になってしまいますが、国際オリンピック委員会(IOC)の第10代会長にカースティ・コベントリー氏(41歳での就任は史上最年少)が選出されました。女性の会長は史上初。
周知のとおり、元競泳選手でオリンピックに5大会出場し、金メダル2個を含むメダル7個を獲得しています。現役引退後もジンバブエのスポーツ相として活躍され、ずっとトップを走ってこられた方です。
読売新聞オンラインによると、現在5歳と0歳の娘をもつお母さんだということです。記者の「二児の母と会長職をどう両立させるのか」という質問に「5歳と0歳の娘がいる。夫や娘たちとスイス・ローザンヌに住み(IOC本部がある)、ここまで夫や家族の支えを得て両立してきた。娘たちには自分の姿を通じ、心を決めて努力を続ければ何にでもなれるのだという事を伝えたい」と答えています。
どれだけの強い信念と深い愛情をもっている女性なのでしょうか。その記事を読んだとき、憧れの気持ちと同時に素晴らしいロールモデルを得たと大変うれしく、高揚した気持ちになりました。
専業主婦だった母と私が思う母親像
女性にとって母親は最も身近なロールモデルとなります。私の母は専業主婦でした。結婚を機に洋裁の仕事を辞めて家庭に入り自営業だった父を支えました。57歳でその生涯を終えるまで、家庭の中だけで生きた人でした。
学校から帰るといつも不機嫌そうな顔をした過干渉の母が家にいました。そんな母と折り合いが悪く、私はいつの頃からか心の中で密かに、将来結婚しても絶対に専業主婦にはならないと誓っていました。母はロールモデルではなく反面教師になりました。
子ども時代、専業主婦に魅力を感じることが出来ず、働くお母さんに憧れたはずなのに、いざ自分が母になった時、幼い子を預けて仕事に出かけることへの罪悪感がありました。好むと好まざるに関わらず、私にとっての母親像は幼少期から見ている自分の母親です。家事や育児は女性の仕事であり、最優先であると学習していました。
宿泊を伴う仕事先で「子どもはどうしたの?」とか「旦那さん大変ね」という、周りの人の何気ないひと言が引っかかり、いつまでも後味が悪く心の中に残るときがあります。私は家庭の中で女性として母として役割をきちんと果たしているのだろうかと考えるときがあります。
性別役割分業の壁に風穴を
スポーツ界に目を向けますと、未だ男性社会です。パリオリンピックは男女同数の選手が参加する初めての大会となりましたが、コーチの男女比は依然として偏っています。過去10年間オリンピックに参加したコーチのうち女性はわずか10%程度だそうです。
日本はどうでしょうか。結婚して家庭をもち、子どもを育てながら第一線で指導している女性指導者をすぐに思いつくでしょうか。
私が指導者を志したとき指導者として研鑽に努めることはもちろんですが、同時にあとに続く女性指導者の道を開き、ロールモデルになりたいと強く思いました。しかし様々な状況や力不足からいまだ達成できていません。しかしマイナスばかりではありません。その間にグラスルーツスポーツの魅力や意義に気が付くことができました。いまはそちらの方へ情熱を注いでいますが、いつかはハイパフォーマンス領域で指導ができたら良いなと思っています。
今回、新会長就任のニュースが飛び込んできたとき、誰もが自分のキャリアも女性としての喜びもどちらも望んでも良いし叶えても良いのだと大きな勇気をもらいました。
昨今、女性の社会進出が促され、意思決定を行う重要なポジションで働く女性(母親)が珍しくなくなってきました。しかし依然キャリア継続か家庭生活を優先させるのかの、選択は女性に委ねられていると感じます。
今回の一件が、性別役割分業の壁にさらに大きな風穴を開け、ガラスの天井を打ち破り、女性に感動と勇気与え続けてほしいと願っています。
一線を引いた後どう生きるのか分からなくなった
さて、ここからは10年間の現役生活を終え出産・育児・仕事・指導者を志すまでの道のりと心の移り変わりを書かせていただこうと思います。
引退が決まり、出場予定のレースが完全になくなった日のことを今でも鮮明に覚えています。濃密な霧が晴れて視界がクリアになり、背負い込んでいた重たい荷物をすべて下ろしたようなとても清々しい気持ちでした。
熱心度は違えど、4歳から水泳を始めて33歳でトライアスロン選手を引退するまで、ほぼ毎日何かしらの練習を行ってきたので、明日から練習がないという事実がとても不思議でした。人生で初めて大きな自由を得たような気持ちでした。明日の朝起きたら何をしようか? と考えるとワクワクしました。
これまでお世話になったスポンサーの方々をはじめ、関係者の皆様へのご報告と挨拶を終えた後、オリンピックで使用したユニフォームや思い出深いモノだけを少し手元に残し、まだ使用できるトレーニングウエア類などは後輩に譲り、残りはすべて処分しました。
これからはスポーツ選手ではないひとりの女性として全く違う新しい人生をむのだという決意と、もう二度とレースには出ないだろうと思ったからです。
これまで我慢してきたこともたくさんやりました。深夜の外出、飲酒、期限付きでない旅行、栄養素にとらわれない食事など、食べたいときに食べたい物を食べることもそうです。
そんな生活をしばらく楽しんだ後、これまでのスポーツという軸がなくなった今、これからどのように生きていくのかが問題になりました。自分は何がしたいのか、どう生きるか。スポーツの枠の中以外で考えたことがありませんでした。
一般的であれば青年期を迎える頃から大人になる前に、自分と向き合いアイデンティティを確立し、将来の方向性を模索する執行猶予期間があると思うのですが、人生のほとんどをスポーツに打ち込んできたためにその時期を通過せず、33歳で引退してからようやくモラトリアム期間を迎えることになりました。ここから自己探求の長い道のりが始まりました。

長男出産後
自分の子どもに会ってみたい
自分の子どもに会ってみたい、出産を経験したい、母になりたいという漠然とした思いはありましたが、こればかりはタイミングもありますし授かりものです。思う通りには行かないだろうと思う気持ちと、ひとつ大きな問題がありました。
母との長年の確執から、自分が子供を産んで育てるというイメージが持てず、子育てに対して全く良いイメージがありませんでした。自分も母と同じような子育てをしてしまうのではないかという恐れがありました。母子の間に何か問題を抱えている事は長年自覚していましたので、自分が母になる前に、一度この問題を整理しなくてはならないと思いました。
インターネットで調べ、自宅から1時間ほどの場所に明星大学心理相談センターを見つけ誰にも言わずそこへ通う事を決めました。心理センターでは専門の先生が毎回1時間ほどじっくり話を聞いてくださり、行動の背景にある原因を分析したり、物事の捉え方、感情、行動の関係性を変えていくことで問題の解決を目指しました。もともと心理に興味があり、何冊か本を読んでいたので、自分の状態を客観的に見ながら答え合わせをするような感覚でした。
通いはじめて2カ月ほどたった時でした。カウンセリング後にいつも次回の予約を取って帰るのですが、その日も次回の予約を取ろうとしたとき「あ、もう来なくても良いかな」と何となく思い、そのことを先生に告げました。そしてその2週間後に妊娠が分かりました。
引退して3か月後のことでした。当時体脂肪率は10%前後でしたので、よく妊娠できたなと自分と長男の生命力の強さに驚きます。妊娠が分かった時はいよいよ母になるのだという喜びと責任を感じました。母として生きていく、私にとって新たな挑戦の始まりでした。
妊娠中はとても楽しかったです。暇があればお腹に手を当てて温めたり、話しかけたり、身体に良い物を食べ、毎日歩き、出産の日まで赤ちゃんがお腹の中でどのように過ごしているのかについて書かれた本を毎日見て過ごしました。
私は3人とも病院ではなく助産院で産みました。なぜ助産院を選んだかという理由は、なるべく自然に近い状態で産みたかったからです。母の影響だったかもしれません。母の教育方針で、幼少期より綿100%の肌着を身に着け、毎日圧力釜で炊いた玄米を食べ、食事は全て手作りでした。添加物を排除し加工食品を食べた記憶がありません。
母からの学び 身体は食べた物でできている
余談になりますが、学生時代の私のお弁当箱はアルミ箱でおかずはいつもまっ茶色でした。母がプラスチックのお弁当箱から飛散するマイクロプラスチックを懸念して、アルミのお弁当箱を使用していました。おかずの色がまっ茶色の理由は、添加物を含む加工食品を入れなかったからです。
年頃の女の子の持っていくお弁当にしては何だか殺風景で、とても恥ずかしかった記憶がありますが、そのおかげか今でも身体はとても丈夫です。アレルギーも一切ありません。現役時代は故障も少なかったです。スポーツ選手として一番大事な基礎をつくってくれたことにとても感謝しています。
その精神は今でも私の中に息づいていています。「もっとカラフルなお菓子が食べたい!」とか「おばあちゃん家にはいつもいっぱいお菓子が置いてあるのに、なんでうちにはないんだ!」と子供たちはブーブー不満を言いますが、そこには負けません。彼らも大人になり自分の子供を持った時にその心が分かる時が来ると信じています。
レースとは比べ物にならない出産の苦しみ
出産のときの痛みは想像以上でした。鼻からスイカを出すような痛みだというのは少し大袈裟ですが、今すぐここで鼻からリンゴを出すくらいは本当です。相当覚悟して臨んだつもりでしたが、これまでに経験したどんなに苦しいレースも比べ物にならない苦痛でした。
レースではどんなに苦しくても所詮2時間程度です。乳酸が溜まり疲労困憊になってもその苦しさで気を失ったり取り乱したりはしません。ペースを落とせば苦しさはやわらぎ、自分でコントロールすることができます。でも出産はそうはいきません。
お腹の中で赤ちゃんが出てくる準備が整うと母親に信号を送り、陣痛が始まります。いったん陣痛が始まると、こちらの都合で中断することはできません。
どんなに痛くても怖くても赤ちゃんが出てくるまで流れに従うしか方法はありません。強烈な勢いで回っている洗濯機の中に放り込まれたようです。※経験者なら分かりますよね? 男性は引かないでください(笑)。
あまりの痛さに「先生! 今すぐ救急車呼んでください! もう麻酔なしでもいいので、今すぐおなかを切って一刻も早く出してください!」とお願いするくらいの激痛でした。
よく出産時の痛みは忘れるから何人も産めるという方がいますが、私は絶対に忘れません。それなのになぜ何度も出産するのかと聞かれれば、あの痛みを乗り越えないと子どもと会えないからです。腹を決めて仕方なく受けて立つというのが本音でしょうか。
第一子の出産時、なかなか産道が広がらず大変な思いをしました。原因は現役時代に鍛えられた骨盤周りの強靭な筋肉が原因でなかなか骨盤が緩まなかったからです。後から聞いてそんなことがあるのかと驚きました。
出産はゴールではなく始まりだというのは本当です。どこに出かけても何をしていてもいつも頭の片隅に子どものことを考えています。これまで人生の多くの時間を、自己成長のために自分のためだけに使ってきましたが、長男を出産した日を境に人生が一変しました。

第3子、長女を出産したときは42歳だった関根さん
孤独と戦い続けて見えてきた光
最初の数カ月は朝晩の区切りがなくなり、子供が泣けば24時間おっぱいをあげておむつを替えます。ある日の夕方、子供が寝ている束の間の時間にふと鏡に映る自分を見た時に、「果たして今日は顔洗ったのだろうか?」と思い、数日間服を着替えていないことにきがつきました。
毎朝旦那が仕事へ行った後、子供と部屋に二人きりになると、いわゆる社会から取り残されたような気持になりました。とにかくずっと泣いていたので常におんぶでした。いつ大きな声で突然泣き出すか分からなかったので、外食はもちろん、店に入ることや電車に乗ることもためらわれました。一時も自分のそばを離れず、私がお世話をしなければ生きていけないような小さな子を一人で抱えて、今日一日をどう過ごせば良いのか途方にくれていた時期がありました。
そうかといって地域のコミュニティセンターに出向き、ママ友をつくり、他愛のないおしゃべりで1日をつぶす気にはならず、第二子を出産するまでの3年間はあまり良い思い出がありません。
先輩ママに「子どもはアッという間に大きくなるから、今の時間を大切にした方が良いよ」とたくさんアドバイスされましたが、到底そんな気分になれませんでした。のろのろと時間が過ぎ、その場でずっと足踏みをしているような気持ちでした。そんな時期にたまにお声がけいただいた大会ゲストや解説の仕事は本当にありがたかったです。子供と離れ、一息つき、自分を取り戻す貴重な時間となりました。
最終的に3人の子どもを授かり、最後に出産したのは42歳の時でした。もう少し早く引退していたら5人は欲しかったと思います。何事も極めたい性格なもので(笑)子育てもとことん向き合ってみたいと思ったからです。
長男を出産してしばらくの間はもう2人目は懲り懲りだと思っていましたが、長男が3歳を過ぎたころから少しずつ余裕が生まれ、仕事と家庭のバランスが自分なりにとれるようになりました。
ちょうどその頃に大役を仰せつかりました。2017年~(現在まで)、(公社)日本トライアスロン連合の理事に就任しました。お恥ずかしい話ですが、理事就任のお話をいただいたとき、一番に「すみません、理事ってどんなお仕事ですか?」と質問してしまいました。今となっては笑い話です。
そのタイミングで私を育ててくれたトライアスロンに恩返しをしたい、何か社会に貢献できる仕事をやりたいと思い始めたので喜んでお受けしました。
それからさらに活動のフィールドが広がりました。理事に就任した年に2020東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織員会アスリート委員に就任しました。組織員会アスリート委員を代表して、4年に一度開催される国際オリンピック委員会(IOC)のアスリートフオーラムにも出席させていただきました。
次回はこの時期に経験したことを中心に、指導者を志すきっかけなどを書かせていただきたいと思います。

アスリートフォーラム
※1カ月に1回程度不定期更新。
【コラムを最初から読む】
>>#001 オリンピアン関根明子さん、コラム始めます!~徒然なるままに~
>>#002【水泳から陸上へ――高校受験が転機に】
>>#003【トライアスロンとの運命的な出会いのきっかけとなった人】
>>#004【本格的にトライアスロンの道へ】
>>#005【シドニーオリンピックをどうやって決めたのか】
>>#006【先輩の背中を見て真っすぐ強くなった私】
>>#007【期間限定のはずが にしきのあきらさん の言葉に勢いで……!?】
>>#008【アテネに向けて再出発 カナダにトレーニング留学】
>>#009【理想の選手とコーチの関係性とは】
>>#010【アイアンマンに挑戦したのは、 自分の殻を打ち破るため】
>>#011【アテネオリンピック前に三宅義信さんから学んだ勝負哲学】
>>#012【あとを追いかけるばかりでは追いつけても追い越せない】
>>#013【アテネを経て改めて想う選手と指導者の距離感】
>>#014【年末にオススメ 思い出の棚卸】
>> #015【シーズン初戦に向けて プロでも気を付けるべき暑熱順化】
>>#016【2006年アジア選手権で奇跡的な銅メダルの裏側】
>>#017【2006年世界選手権 諦めず最後まで走り切った結果…】
>>#018【アジア選手権に思うこと】
>>#019【スキルや想いを紡いでいくこと】
>>#020【「自己コントロール」のための「セルフトーク」の重要性】
>>#021【アクアスロン出場であらたな自分を発見】
>>#022【私が現役引退を決意するまでの数カ月】
>>#023【「なぜ怒りを指導に使ってしまうか」その答えを見つけに】
>>#024【脳と身体のつながりについて考えるきっかけになったこと】
九州国際大学附属高等学校女子部陸上競技部。ダイハツ工業株式会社 陸上部に所属。1998年トライアスロンへ転向し、10年間プロトライアスリートとして活動。2008年に引退後、現在は3人の子育てをしながら、トライアスロンやランニングのコーチとして活動中。1975年生まれ、福岡県北九州市出身。
関根さんがメインコーチを務める、埼玉県さいたま市にある埼玉スタジアム2002公園を拠点に活動するランニングとトライアスロンのクラブ
SAI ATHLETE CLUB SAITAMA《主な成績》
1998年 ソウル国際女子駅伝 日本代表、横浜国際女子駅伝 近畿代表
2000年 シドニーオリンピック トライアスロン日本代表
2004年 アテネオリンピック トライアスロン 日本代表
2006年 アジア競技大会 (ドーハ)